7月のメッセージ「わが名はヤコブ」−創世記32章23節〜33節−
沖村裕史(三原教会牧師)
その夜、ヤコブは起きて、二人の妻と二人の側女、それに十一人の子供を連れてヤボクの渡しを渡った。皆を導いて川を渡らせ、持ち物も渡してしまうと、ヤコブは独り後に残った。そのとき、何者かが夜明けまでヤコブと格闘した。ところが、その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘をしているうちに腿の関節がはずれた。「もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから」とその人は言ったが、ヤコブは答えた。「いいえ、祝福してくださるまでは離しません。」「お前の名は何というのか」とその人が尋ね、「ヤコブです」と答えると、その人は言った。「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ。」「どうか、あなたのお名前を教えてください」とヤコブが尋ねると、「どうして、わたしの名を尋ねるのか」と言って、ヤコブをその場で祝福した。ヤコブは、「わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付けた。
ヤコブがペヌエルを過ぎたとき、太陽は彼の上に昇った。ヤコブは腿を痛めて足を引きずっていた。こういうわけで、イスラエルの人々は今でも腿の関節の上にある腰の筋を食べない。かの人がヤコブの腿の関節、つまり腰の筋のところを打ったからである。
聖書のみ言葉は、ヤコブが、「ヤボクの渡し」と名づけられた渡し場にやって来たところから始まっています。 ヤコブはこの時、兄エサウの怒りから逃れるために一度は捨てた故郷に、二十年の歳月を経て、今再び帰ろうとしているその旅の途中にありました。故郷へ。それは神の導きによるものです。神はヤコブに言われました、「あなたは、あなたの故郷である先祖の土地に帰りなさい。わたしはあなたと共にいる」(創31:3)。
そもそも、故郷を離れざるを得なくなった原因は、ヤコブ自身にありました。ヤコブは、兄エサウのひもじさにつけ込み、レンズ豆の煮物と引き換えにまんまと「長子の特権」を得、さらには、母リベカと結託して、目の見えなくなった父イサクを騙し、エサウが受けるはずだった祝福を奪い取ったのでした。食べ物を餌に兄を陥れ、用意周到に母とともに父を欺きます。正義も良心のかけらさえもない振る舞いです。兄の激しい怒りを買い、父の家を離れざるを得なくなり、ヤコブは、己の身一つだけ、何一つ持つこともなく、文字通り故郷を追われるようにして旅立ったのでした。その姿は、「長子の権利」からも「祝福」からも程遠く、「弟が兄に仕えるようになる」という神の約束のみ言葉とは余りにも対照的な、惨めで、寂しい姿でした。
母方の叔父であるラバンのもとを目指したその旅はヤコブにとって、何の頼るものもない、自分の将来に一片の光も見出せない、まさに不安と苛立ちの旅でした。とその時、神は再びヤコブに約束をお与えになります。「あなたの子孫は大地の砂粒のように多くなり、西へ、東へ、北へ、南へと広がっていくであろう。地上の氏族はすべて、あなたとあなたの子孫によって祝福に入る。見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り、必ずこの土地に連れ帰る。わたしは、あなたに約束したことを果たすまで決して見捨てない」(創28:13)。神の祝福、大いなる恵みの約束です。
叔父ラバンの下に着いたヤコブは懸命に働き、23節「二人の妻と二人の側女、それに11人の子供」と書かれているように、ラバンのふたりの娘を妻に迎え、たくさんのこどもにも恵まれ、富を成しました。しかし、二十年という長い年月は決して平坦なものではありませんでした。神の約束があったのだからヤコブは何の苦労もなく、易々と家庭も財産も手に入れたのだろう…。とんでもありません。狡猾な叔父ラバンに翻弄されながら、ヤコブは毎日を必死に生き抜きました。その間、ヤコブが祈る姿、礼拝する姿はどこにも描かれません。神のみ恵みによってではなく、自分の知恵と力で、血の滲む努力と忍耐で今の豊かさを築き上げたのだ、ヤコブはそういう自負すら抱いていたのかもしれません。
そんな折、ヤコブはまたもや神に命じられます。故郷へ帰れ。豊かな家庭と富を築いて故郷に錦を飾るのですから、普通であれば、意気揚々、鼻高々のはずです。 しかし、ヤコブには深い悩みと不安がありました。神の呼びかけに応えて叔父ラバンの下を去ったものの、帰ろうとする先には、ヤコブを殺そうとまで憎む兄エサウがいるのです。今も兄は自分を憎んでいることだろう。どうしたものか。その旅の途中の地で、「マハナイム(二組の陣営)」とつけたその名にヒントを得、自分の家族、持ち物、財産をすべて二組に分け、一方が攻められ滅ぼされても、他方が生き残ることのできるようにしたり、何度も贈り物をすることによって兄エサウの怒りを宥めようとしたり、いかにもヤコブらしい策を弄します。しかし、不安と悩みは、故郷が近づくにつれて、日増しに大きく深くなっていくばかりです。そのような中、ヤコブは、川の渡し場までやって来たのでした。
23節、その深い悩みの中、ヤコブは、その夜、夜明けを待ちきれないようにして、近くにあるヤボクの渡し場から家族も持ち物も無事渡し終え、ただ独り立っていました。彼は、ひとり何を考えていたのでしょうか。心が千々に乱れていたやも知れません。これからの身の振り方への不安よりも、むしろ、神は、誕生の時も、家を離れる旅の時も、そして、再び故郷へ帰るこの時にも、約束のみ言葉を与えてくださった。しかし、神のみ言葉に従って経験して来たことは、その祝福や約束とは程遠い、苦難や孤独、労苦と辛酸ばかりではなかったか。そんな深い悩みに囚われていた、その時のことです。
何者かがヤコブを襲います。25節「何者かが夜明けまでヤコブと格闘した」。ヤコブに思いがけず襲いかかってくる者とは、一体何者なのか。渡し場や川に出没すると言い伝えられる、悪鬼とか悪霊だろうか。正体も分からぬままに、まさに漆黒の暗闇の中で、ヤコブはもがき、格闘します。以前の口語訳聖書では「組打ち」と訳されています。まるで日本昔話にでも出てきそうな話だ、渡し場で天狗か何かと相撲をとるなんて、などといったノホホンとした話ではありません。襲われたヤコブは、自分が得た家族と財産を兄の手から守ることに必死になっていたのに、肝心要の、自分の命が絶望的な危機に瀕していることに気付きます。命を落とせば元も子もない。ヤコブは命を賭して、夜が明けるまで、もがき、格闘します。26節「その人はヤコブに勝てないとみて、ヤコブの腿の関節を打ったので、格闘しているうちに腿の関節がはずれた」。一歩も譲らない必死の姿、腿の関節がはずれてでも、その手をゆるめないヤコブの姿がここには描かれています。兄から姑息な手段で祝福を奪い取り、一筋縄ではいかない叔父ラバンの下で賢く財産を築いてきたヤコブ。ついさっきまで、兄の怒りをどうやって宥めようかと、あの手この手を考えていたヤコブ。ヤコブらしい執拗な姿です。ついに、27節「『もう去らせてくれ。夜が明けてしまうから』とその人は言ったが、ヤコブは答えた。『いいえ、祝福してくださるまでは離しません』」。なおも執拗に食い下がり、もがき、格闘するヤコブに、姿・形も分からぬ相手が根を上げます。薄っすらと空が白み、辺りの風景と相手の顔が見え始める、そんな時、夜明けとともに去ろうとする人物をただの人ではない、神ではないのかと感じたヤコブは、「祝福するまで離しません」と、さらに食い下がります。その姿は、詩篇22編の詠い手の、悶え苦しみ、必死に神により頼む姿と重なります。「わたしの神よ、わたしの神よ/なぜわたしをお見捨てになるのか。なぜわたしを遠く離れ、救おうとせず/呻きも言葉も聞いてくださらないのか。わたしの神よ/昼は、呼び求めても答えてくださらない。夜も、黙ることをお許しにならない」。苦難と苦悩に涙しつつ、ただひとり神のみ前に立ち、もがき、苦闘する。その孤独な戦いにあっても、しかし、決して神に背を向けることなく、その、神との出会いの瞬間を逃がすまいと、ヤコブは執拗に食い下がるのです。
すると神は、28節から29節「『おまえの名は何と言うのか』とその人が尋ね、『ヤコブです』と答えると、その人は言った。『お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と闘って勝ったからだ』」。神はヤコブの質問には答えず、彼の名を尋ねます。日本の古語に「言霊」という言葉があるように、古代イスラエルにおいても言葉は単なるコミュニケーションの手段ではありませんでした。それは「存在」と「力」そのものだ、と見做されていました。神の創造のみ業は言葉によってなされ、主イエスはみ言葉によって悪霊を退けられました。名を問われ、我が名はヤコブ、と自ら名乗る時、そこには、彼の人格が、彼の人生が現われるのです。
ヤコブは自らの名を、どのような思いで言うことができたでしょうか。「ヤコブ」それは、「欺きし者」「私は欺くものだ」という意味です。名は、と尋ねられた時、ヤコブは罪深い自分の本性を告白せざるを得ませんでした。私は欺きし者だ、と。その時、神は、ヤコブに新しい名を与えられました。「イーシュ・サーラー・エル」、イスラエルという名です。それは「神と闘った」ことから与えられた名です。悲しみと苦しみに打ちひしがれるその現実の只中にあって、なお、神との苦悶に満ちたその戦いを戦い抜き、神の試みに、神の試練に打ち勝ったということを意味する名です。新しい名を与えられる、それは、新しい命を与えられるということに他なりません。ただ、しぶしぶ祝福を与えたのではなく、新しい命を、新しい人生を、今、ヤコブは神から賜ったのでした。
ヤコブは、確証を求めて、30節「『どうか、あなたのお名前を教えてください。』とヤコブが尋ねると、『どうしてわたしの名を尋ねるのか』と言って、ヤコブをその場で祝福した」。名は明かされませんでしたが、ヤコブの「祝福してください」という願いはかなえられました。このような、神との出会いを、ヤコブは、31節「『わたしは顔と顔とを合わせて神を見たのに、なお生きている。』」と言って、その場所をペヌエル(神の顔)と名付け」、まさに祝福に満たされたのです。
ヤコブは、自分を守るために必死でした。自分が何よりも大事です。家族を、財産を、そして自分自身を必死で守ろうとするその姿は、わたしたちの姿でもあります。しかし、いつも自分の思い描いたとおりに事が運ぶわけではありません。むしろ人生は、神の約束とは真反対にも思える、苦難の日々であるとさえ言えるかもしれません。それでも彼は、真っ暗闇の中にただひとり立ち、寂しい渡し場に取り残されて深い苦悩に苛まれているその時にも、執拗に神の祝福を求め、格闘してでもなお神によりすがりました。決して涙し、諦め、立ち去ろうとはしませんでした。それこそが「顔と顔とを合わせて神を見た」ということでした。私たちは、神と格闘するほどに、神と出会っているでしょうか、失望したり、あきらめたりせず、ただひたすら神によりすがっているでしょうか。神のみ前に立たされ、ヤコブが「我が名はヤコブ」−我は罪人なり−と告白したように、自分の姿を見つめ直し、赤裸々に自分のことを告白しているでしょうか。その時こそ、神は招かれます。私たちがどれほど罪深くとも、その私たちに臨んでくださいます。そして、苦難も平安も、悲しみも喜びも、それらすべてのことが神から賜った祝福であったことに私たちは気づかされ、私たちにも新しい名が与えられ、日々新しい命に生かされる喜びを知ることになるでしょう。なぜなら、主こそ愛の神だからです。
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