8月のメッセージ『負いやすい軛(くびき)』−マタイによる福音書11章25〜30節−
北村健一(福山延広教会牧師)
そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした。すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」
この聖書の箇所にイエス様の感謝、願い、招きの三つを知ることが出来ます。イエス様がなさった病人のいやしやお言葉は幼子のような者にお示しになりました。幼子のようなといいますのは、徴税人や病人、漁師、女性などの庶民でありました。これが御心に適うことでしたというのですから、その理由は神様しか知り得ません。私たちがわかることは、イエス様は社会的弱者を親身になって愛されたという事実です。ですから感謝されたのだと思います。
皆さんは、自分が病気した時に心配してくれたり、介護してくれる家族に感謝しているでしょうか。その愛する行いによって私たちの病気もいやされてきたと思うのです。いやしと安らぎをもたらすものが福音だとすれば、イエスさまのなされた業こそ福音であって、今日の私たちが「神様と出会う」場所を見出すのは、私たちの日々の行いの中であると言えるでしょう。
家族の介護に、仕事に、地域との関わりなど毎日毎日、重荷を負わされ、責任を負わされていませんか。でも神様は決して負いきれない重荷は負わされないと思いますし、そればかりか、あとで振り返った時に充実感という恵みを与えて下さっているのですね。福音を頼りに生きるということは、現実には決して簡単なことではないけれども、隠されているその喜びが、必ず明らかにされることを約束してくださっているのです。
イエス様が弟子を選ばれたということは、イエスさまが自分の方に引きつけて、取り込んでしまおうということではもちろんありません。弟子が父と一つになる、そういうところに生きているのだということを、弟子が分かってくれるのが、イエス様の願いでありました。12人の弟子たちには、汚れた霊に対する権能をお授けになり、派遣させました。あらゆる病気や患いをいやすためでした。イエス様が選ばれた弟子たちに何か才能があったわけではありません。12使徒に選ばれるまでは一人一人は目立たぬ存在でありましたが、一つにまとまることによってそれぞれが解放され、お互いがそれぞれの個性を引き出していったのです。
「くびき」と言いますと束縛されるイメージがありますが、イエス様はどこまでも「くびき」につながって関係を続けられます。関わりを続けられることで、イエス様はあなたの存在のすばらしさを深く、重く、受け止めてくださいます。関わりがエネルギーを生み出すからこそ負いやすくなるのだと、この聖書箇所は語っているように思います。
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