9月のメッセージ「まなざしを移す」 マタイによる福音書19・16〜22

寺田 進(尾道久保教会牧師)

さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るためには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年は悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

 イエスのもとを訪れた金持ちの青年は、きっと満たされない思いを抱いていたのだろう。まだ何かが足りない、このままではダメだ、もっと、もっと…。あるいは、自分の来し方が正しかったのか間違いだったのか、このまま進んで大丈夫なのか、何か別の方法を採るべきなのか…。おそらく真剣な問いを抱えて彼はイエスの前に立ったのではなかったろうか。もっと、もっと…と彼を駆り立てているものはなんだったのだろう。
 皆さんがこのHPを開く9月には、総選挙の結果も出ていることだろう。戦後60年、世界第2位の経済成長と言われて久しいこの国は、年間3万人を超える人が自殺しなければならないでいる。わたしたちが本当に目指した豊かさとはなんだったのだろうか。行き着く先が、こういうことだったとは。それともどこかでわたしたちは、そろって道を踏み外したのだろうか。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか」と、イエスに、この青年と共にわたしたちも問うてみたい気がする。
 永遠の命…あなたの一番大切なもの、そこに至る方法、そのために今までしてきたこと、今していること…。そこにわたしたちはいったい、何を見ているのだろう。もっと、もっとと自分を追い込んで、そこに見出したものは何だったのだろう。イエスは「視点を移せ」と言っているのではないか。有り余るものに増し加えて安心を得、永遠のいのちまで手にしようとしてきた…。しかしつかんだと思っても実感できない。いや何かもっと、もっと何か別のことが…。必死で手を伸ばし、虚空に何かをつかみ取ろうとしてきた。
  しかし、イエスは言う。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」そうだ、手を握りしめるのではなく、その手を、開け、と主イエスは言う。…つかんでいるものを、はなしてごらん…。

 さて、金持ちの青年はこれを聞いて悲しみながら立ち去ってしまった。そしてまた、果てしなくとりとめもない道を歩みだしたのだろうか。しかし、イエスは「もし完全になりたいのなら」と言っていた。つまりあなたが、今まで来た道を更に行きたいのなら、ということだ。しかし逆に、もしわたしたちが本当にイエスの言葉によって今「視点を移す」ことができたなら、この両目に入ってくる風景の中で、わたしたちは今このままで、イエスに従うのではないだろうか。



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