| 11月のメッセージ 「尊く造られた人間」
創世記2章7節
吉仲 將(松永教会牧師)
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた」
人は何の目的で生きるのか、生きるということはどういうことか、どうして生きなければならないのか、このような問いは昔も今も変らないものです。しかしわたし達はこんな問い掛けをしないまま日常生活を送っていますが、不慮の事故や思い掛けない病気で死と向き合うようなことに出合うと、この重い、重い問いが起きてきます。
この難問に中々簡単に答えられないものですが、解決の道筋を聖書から得られるのです。それが、上掲の聖書のことばです。これは焼き物師が粘土で器をつくるような比喩的な書き方ですネ。人は塵で出来ていますから、やがて塵に帰るという現実を見据えています。
しかしそれだけではなく、命の息を焼き物師である神(創造主)が鼻から吹き入れられたという具象的?な表現を理解するには、無神論者では無理でしょう。しかし日本人は意識の底に神的な存在を多少、認めていますから抵抗はないかもしれません。あなたは如何ですか。
これはしかし重要なポイントです。焼き物師は器を造ったり壊したりする権限を持っていますから、文句は言えない。でも決してポイ捨てはなさらない。息を吹き入れて生きるように「形づくった」からです。この「形づくる」という聖書の原語(ヘブライ語)は、創意工夫し目的を持ってつくった(英語=フォルム)という言葉で、普通の作る(メイク)ではないのです。
ここでわたし達は、神に形づくられたという人間論が非情な運命論に掏り換えられて、駄目人間、無能力な人間に出来ているから、仕方がないとあきらめたり、自暴自棄になったりしてはならないのです。また人の犯すいろいろな悪しき働きを、神に責任転嫁して、言い逃れようと弁明することも間違いです。
大切なことは二つあります。まず「壊れやすい弱い器」であるということです。釉を塗って高温で焼かれた陶磁器ではなく、粘土を焼き物師がこねて形づくった素焼きの器だからです。高級ブランドではない、安物です。これはわたし達お互いを評価するのに示唆を与えます。あなたは人と比較して卑賤をあげつらってはいませんか。第二はみな色々な異なった形の土の器です。多様ということはそれぞれに存在意義を持っていること、つまり「目的をもった存在」として造られたということです。同じ藁で編み笠をつくり、便所の草履をつくると昔の人は言いましたが、どちらも大切な物です。
45億の人間に45億の顔があるのです。中には「そっくり」似ているかも知れませんが、一人として同じ顔はありません。わたしの松永教会の境内地には草や樹木が数多くあります。しかし、雑草という名前の草はありません。みんな名が付いていて、図鑑で調べてそうでないと判れば、大発見ですネ。人には必要でない草でも、草を食べる動物には必要かも知れません。
以前「茄子」のことを「ぼけ茄子」とか呼んでいましたが、今では他にないカルウムが豊富に含まれている野菜で、美味しく頂きます。灰汁であってもクロロゲン酸、ポリフェノルは動脈硬化の予防やガンの発生進行を抑制する作用があるそうです。
ローマの信徒への手紙9章(287ページ)には、焼き物師である神の権限(21節)について述べている箇所がありますが、そこに旧約聖書からの引用として「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼び、愛されなかった者を愛された者と呼ぶ。『あなたたちは、わたしの民ではない』と言われたその場所で、彼らは生ける神の子らと呼ばれる」(25節、26節)と書いてあります。
わたし達がイエス・キリストに自分をすべて明け渡し(サレンダー)、主なる神の創造の目的と御意志に従って新しく生きる根拠は、ここにあるのです。
テレビで元スリや泥棒だった方が、回心して警察官や民間人にその手口を詳細に教えて、被害に遭わないよう協力者になった実話を観たことがあります。
スタンレー・ジョンズという方が、こんな文章を書いています。少し長いのですが、ご紹介しましょう(同著「震われない御国と変らない人格」)。
神の御手の中に自らをサレンダー(完全放棄)することによって人は変えられます。……それは、インクが作家の書くがまま明け渡しているのと同じです。ただのインクが作家の目的に用いられると、文字になって燃え、祝福に変えられてゆく。電線が発電機につながった状態が、明け渡しです。単独で接触するものがないなら、光も電力もない。しかし発電機に委ねると、光と電力が脈打ったように作動するのです。あなたが創造の愛なるお方にサレンダーするなら、語るすべてが、行動するすべてが、その方の生み出す力で高められます。……そして今やあなたは、「自我」よりも神の国とキリストを愛しているので、自分自身を愛することができるのです。あなたの自我をキリストの御手の中に委ねると、それは可能性と力になります。
あるスウェーデンの婦人が、「私は自分がきらいです。それでも自分自身と生きなければなりません」と言っていました。ところが彼女は数日後、キリストに明け渡し(サレンダー)た。そして私に会った時に、こう言った。「私は今朝、すべての人を愛しています」と。だから神の国をまず求めると、すべての自己嫌い、自己拒絶が、いつの間にかなくなってしまうのです。
ある朝、一人の友人がスタンレー・ジョンに「ジョン、僕は君のことを神に感謝している」と言いました。するとジョンは「そうですか、僕は神に自分自身のことを感謝しています」と答えたのです。全くその通りであり美しい限りです。そこで、このように言うことができるのです。
幸いなるかな、
私の手よ、それらは主(神)の御手と握手したから。
幸いなるかな、
私の足、それらは主の道を歩いているから。
幸いなるかな、
私の心よ、それは主に、今も、そして永遠に属しているから
幸いなるかな
わたしよ、私は主に所属しているから。』
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