3月のメッセージ「十字架を背負って」

沖村 裕史(三原教会牧師)

マタイによる福音書 16章21〜28節
21 このときから、イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた。22 すると、ペトロはイエスをわきへお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません。」23 イエスは振り向いてペトロに言われた。「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」24 それから、弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。25 自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。26 人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか。27 人の子は、父の栄光に輝いて天使たちと共に来るが、そのとき、それぞれの行いに応じて報いるのである。28 はっきり言っておく。ここに一緒にいる人々の中には、人の子がその国と共に来るのを見るまでは、決して死なない者がいる。」

 イエスとペトロたち弟子がやり取りをしていた場所、それは、パレスチナ最北の地、ヘルモン山の麓にある町でした。海抜2800メートルのヘルモン山に源をもつヨルダン川は、一旦ガリラヤ湖へと流れ込み、流れはさらに渓谷を幾度も蛇行しながら、エルサレム近くの死海という湖へと至ります。その湖は、海面から400メートルも低いところにある塩の湖です。ヘルモン山からその死海までの直線距離はわずかに百数十キロメートルですが、しかし、その標高差は3200メートルにも及びます。起伏の激しい地形です。ヘルモン山の麓は、ヨルダン川が南北に貫くパレスチナ全土を眼窩に一望できる、そんな場所でした。ガリラヤ湖の湖畔で、イエスが人々を癒し導かれたその時までの宣教伝道の歩みを振り返りつつ、と同時に、今まさに始まろうとしている十字架のエルサレムへと一気呵成に駆け下って行くような、苦難の道程をすべて見渡すことのできる、そんな場所でした。
 その場所で、「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められ」、そして弟子たちに言われました、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と。ペトロには、イエスの語られる十字架の意味が分かりません。そこでイエスは、ペトロにこう言われます。ペトロよ、なぜ、わたしの前に立ち塞がるのか。それは、あなたが、あなた自身のいのちがどんなに尊く、重いものかということをまだ知らないからだ。あなたはこの後、勇ましくも「このいのちを捨ててもあなたに従う」と言うかもしれない。しかし、わたしが捕らえられ、死に定められるその時、あなたは自分のいのちを惜しんでわたしを拒むことだろう。その意味で言えば、あなたは確かにいのちの尊さを知っている。人間は、だれしも自分のいのちを惜しむものだ。けれども、ただ殺されるのはいやだとか、もう死んでもいいやと暗く呟くそのような意味で、いのちが尊いと言っているのではない。あなたは、本当に自分のいのちの尊さを知っているか。あなたといういのちの尊さは、わたしが今語ったように、わたしがいのちを捨てることによって、初めてその代価を払い得るようなものなのだ。あなたは、わたしを生ける神の子だと呼ぶ。その生ける神の子が今、死のうとしている。それは、この世界すべてをもってしても贖うことのできないほどに、かけがえのない大切なあなたのいのちを、神の子であるわたしのいのちをもって贖おうとするためなのだ。それが分かるか。そう言われているのです。
 今、わたしたちは、神様の御前で自分のいのちの重さを測り直さなければなりません。そこでこそ、わたしたちは本当のいのちを見出すことができるのではないでしょうか。たとえわたしたちがどんな人間であったとしても、まぎれもなくわたしたちは、神様からいのちを与えられ、生を与えられています。わたしたちは、そこでこそどんなに神様から愛されている人間か、かけがえのない人間であるかということを、見出すことができるでしょう。わたしたちが思っている以上にかけがえのない人間なのだということに気づかされることでしょう。そうしなければ、わたしたちは、ただ自己卑下と傲慢の罠に囚われ、自分の空しさを埋めるために、自分勝手にこの世界のすべてを手に入れようとして狂奔することになるでしょう。少しばかりの金を儲けることが自分の世界を手に入れることだと錯覚し始めます。少しでもこの世界で良い地位を手に入れることが自分の値打ちを上げることだと錯覚します。神様が与えてくださっているいのちの重さ以上に、それらのことの方がしあわせをもたらすのだと思い込みます。わたしたちはしばしばそういう過ちを、罪を犯してしまうのです。
 そこでイエスは、「自分の十字架を負いなさい」と言われました。「あなたの十字架を負いなさい」と言われました。「わたしの十字架」とは何でしょうか。自分でしか負えない十字架とは何でしょうか。わたしたちは自己犠牲のヒーローにならなければいけないのでしょうか。「もっと大胆に献身すべきである」とイエスは要求されているのでしょうか。それとも「わたしたちはそんなことのできない無力な者です。それでも、毎日毎日、小さな十字架を負っています」と言えればそれでよいのでしょうか。そうであるなら、わたしも十字架を数えることができます。わたしには肉体の弱さの十字架がある、家庭のために十字架を負っている、仕事での労苦を負っている。そんな風に、あれこれと十字架を数えることができるでしょう。しかし、それで「これがわたしの十字架です、もうこれ以上負うわけにはいきません、イエスよ、これで十分です」と言うことが許されるのでしょうか。それとも、そのいずれでもなく、「この十字架を負え」という言葉は、ただ引け目を感じながら、結局は避けて通るだけのものなのでしょうか。そうではありません。「自分の十字架」です。「わたしの十字架」です。他の何ものでもありません。そう、「わたしが負うもの」としてイエスが与えてくださっているものなのです。イエスがわたしに与えてくださるもの、イエスが、わたしたち一人ひとりにお与えになっている十字架、それはわたしたちの、このあるがままのいのちそのもののことです。
 ですから、それは、自分のわがままな心ではなく、イエスの御心を大事にするということです。神様の御心によって与えられたこのいのちを大事にするということです。わたしたちのいのちを、御子のいのちをもって贖っていてくださる神様の御心を大切にするということです。そのようにして、自分自身のいのちを大切にすることです。イエスの御声が、聞こえてきます。「わたしはここにいて、あなたのいのちの重みを負っているではないか。さあ、ここに来なさい。あなたが生きる道は、他のどこにあるというのか」と。



United Church of Christ in Japan
福山延広教会、福山東教会、松永教会、尾道久保教会、三原教会、神辺教会、尾道吉和伝道所
Copyright(c) 2005 日本キリスト教団 西中国教区 広島東分区. All Rights Reserved.