7月のメッセージ「人生に嵐吹くとも」

石塚 一(福山延広教会牧師)

マルコによる福音書4章35節以下

「・・・イエスは起き上がって、風邪を叱り、湖に『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。・・・」

梅雨が終わると、今度は台風の季節を迎える。それと同じように、私たちの人生も一難去って、又、一難ということが多い。それどころか、先に倍する暴風雨のような日に直面することだってある。
そのような時に、「神を信じなさい」とか「イエスを頼りなさい」と言うことは簡単である。だが、果たして本当に、それだけで人は直面する嵐から救われるのだろうか。
例えば、仕事に失敗して破産した。その時に、「思想家」としてのイエスを信じるだけで、人は再び起ち上れるだろうか。「明日のことを思い煩うな」というイエスの言葉を思い出した途端に元気が出てきた、もう大丈夫なんてことには、まずなるまい。
あるいは、不治の病に侵されて、希望が持てなくなった。その時に、「社会改革者」のイエスを信じるだけで、安らぎや慰めは得られるだろうか。いかにイエスが、世の中の差別と戦われたことを念じたとしても、それで病気と戦う勇気や死への怖れが克服されるものではない。
さらに、家庭が破綻したり、親子関係がまずくなった時、「魂の救い主」なるイエスにすがれば、人間関係を建て直せるのだろうか。イエスを信じたら、夫の浮気も子どもの非行もピタリとやんだなどというのは、まるで新興宗教の作り話である。宗教への逃避が現実の人間関係を癒すことはできない。

このように人生の暴風に直面して沈みかけた時には、ただ「神を信じなさい」とか「イエスを頼りなさい」と言うだけでは不十分である。少なくとも「思想家」や「社会改革者」や「魂の救い主」といった断片的なイエスを信じているだけでは、現実を打開する力にはなりえない。そして、冒頭の聖書の言葉が取り扱っているのは、まさにその問題である。
弟子たちは、湖で激しい嵐に遭遇して、すっかり慌てふためいてしまった。自分たち自身では全く対処することが出来なかった。つまり信じているはずの信仰が、そこでは全く役立たなかったというのである。いったいどうして彼らの信仰は無力だったのか。
弟子たちに対して、イエスは「なぜ、怖がるのか。まだ信じないのか。」と叱責されたという。しかり、弟子たちは、まだ本当にはイエスを信じていなかったのである。
なるほど、彼らには信仰らしきものが芽生えてはいた。だから持ち物を捨て、親兄弟を後に残してイエスに従ってきたのである。だが、彼らの信仰は、なお偉大な人物に対する信頼や尊敬の域を超えてはいなかった。まさに、「思想家」や「社会改革者」や「魂の救い主」としてのイエスへの敬慕の念でしかなかった。だから、ひとたび窮地に陥るとイエスの力を信じ、頼り切ることができずに、慌てふためいて騒ぎ立てたのであった。

しかし、本当にイエスがどのようなお方であり、どのような力をお持ちであるかを知っていたならば、弟子たちは慌てふためく必要など無かったのである。
旧約聖書のヨブ記38章には、どんな強大な自然現象も、世界の統治者なる神のみ手のうちに置かれていることが、記されている。傍若無人に振舞っているかに見える嵐と言えども、世の支配者なる神の許可の下でだけ活動をゆるされているにすぎない。神の許可なしには一羽の雀すら損なうことは出来ない。
そして、マルコが伝えるまことの信仰によれば、このイエスこそは旧約聖書が語り伝えてきた、世の支配者ご自身なのである。
この事実を弟子たちが信じることが出来ていたならば、彼らは慌てふためくことなく、落ち着いて直面する事態に対処しえたことであろう。舟に水が侵入してきたら、かい出せばよい。バランスが崩れかけたら、余計な荷物を処分すればよい。それだけのことに過ぎなかった。「人事を尽くして天命を待つ」の理どおり、まず自分たち自身でなしうる最善を尽くして耐え忍んでおれば、あるいはその内に嵐も過ぎ去ってしまったかもしれない。イエスの許し無しには、なにものもイエスの保護下にある人々を損なうことは出来ないのだからである。
しかしこのたびは、彼らの信仰の不足ゆえに、イエスご自身に力を仰ぐこととなってしまった。そして、一部始終を目の当たりにした弟子たちは、互いに顔を見合わせて「いったいこの方はどなたなのだろう。風邪や湖さえも従うではないか・・・」と言い合ったという。それは単なる驚きの言葉でなく、自らへの信仰的な問いかけである。彼らは改めて、イエスをより深く知ろうと決意したのである。

このようにこのマルコの話は、イエスが世の単なる思想家や宗教家や改革者でなく、それ以上のお方であることを象徴的に伝えている。イエスは、私たち人間が日常生活で遭遇するあらゆる嵐や荒波を鎮めてくださるお力をお持ちである。このイエスを信じれば、私たちはどんな困難に遭遇しても落ち着いて対処できるし、飲み込まれること無く生きてゆける。
いな、たといそこで力尽きて沈むことになったにしても、それを納得できるだろうし、悔いを残さず人生を終えることが出来る・・・私たちにとってイエスとは、そのような信頼に足るお方である、とマルコは伝えているのである。



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