9月のメッセージ「宣教への派遣」
宇佐美 節子(神辺教会牧師)
マルコによる福音書6章1節〜13節
「イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。『この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい 何か。この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。』このように、人々はイエスにつまずいた。イエスは、『預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである』と言われた。そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。そして、人々の不信仰に驚かれた。
それから、イエスは付近の村を巡り歩いてお教えになった。そして、十二人を呼び寄せ、二人ずつ組にして遣わすことにされた。その際、汚れた霊に対する権能を授け、旅には杖一本のほか何も持たず、パンも、袋も、また帯の中に金も持たず、ただ履物は履くように、そして『下着は二枚着てはならない』と命じられた。また、こうも言われた。『どこでも、ある家に入ったら、その土地から旅立つときまで、その家にとどまりなさい。しかし、あなたがたを迎え入れず、あなたがたに耳を傾けようともしない所があったら、そこを出ていくとき、彼らへの証しとして足の裏の埃を払い落としなさい。』十二人は出かけて行って、悔い改めさせるために宣教した。そして、多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした。」
主イエスは、ヤイロの娘を生き返らせられた後、その家を出られて弟子たちを連れて故郷のナザレへ伝道に行かれました。ナザレの人々にとってイエスは、ある意味で近すぎる存在でありました。そのため自分たちの知っている範囲内でイエスを理解しようとしたので、遂に理解することが出来ません。それに彼らには、元々ナザレから良いものが出るはずはないと考える傾向がありました。だから、イエスがどんなに知恵に満ちた言葉で語られてもそれを聞いて驚きはしても、信じることはできませんでした。そして、人々はイエスにつまずいたのでした。
主イエスの真の姿を見極めることができるためには、人はそれぞれ、自分自身の浅い知恵や少しばかりの人生経験にこだわらず、上よりの光に照らされて、見つめなければなりません。聖書がイエスを証しするものであることを信じて受け入れ、イエスを信じる信仰に立たなければなりません。
イエスの郷里伝道は、失敗したかのように見えましたが、決して無駄ではありませんでした。わたしたちも、たとえ受け入れられなくても気を落とさず、身近な人々のために伝道し、祈り続けたいと願います。わたし自身も姉のために祈り続け、20年目に姉の受洗が実現し、祈りは聞かれるのだということを喜びと感謝の内に経験いたしました。現代のわたしたちにとって、信じるとは何よりもあきらめないことを意味するのではないでしょうか。神はわたしたちを見捨てず、わたしたちに救いをもたらしてくださるというイエスのメッセージを信じるとき、状況がどんなに行き詰まりに見えても、わたしたちは希望を持ち、より良いものを目指して行くことが出来るのです。
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