5月のメッセージ「弱気を活かす神」

石塚 一(福山延広教会牧師)

列王記上17章8節以下

「その時、主の言葉が彼(エリヤ)に臨んで言った、『立ってシドンに属するザレパテへ行って、そこに住みなさい。わたしはそのところのやもめ女に命じてあなたを養わせよう』。・・・」


 アハブという王の時代にユダの国は、大変、繁栄していた。アハブは政治的には有能な王だった。しかし困ったことに彼は、経済発展のためならば何を犠牲にしても構わないと考える人物だった。彼は貿易を発展させるために活発な外交を展開したが、同時に外国と軍事同盟を結んだり、外国の神々を取り込んで宗教的混乱を持ち込むことを平然と行った。
 だが、そのようなアハブに国民のほとんどは好意的だった。経済が発展すれば生活が楽になる。そして楽な生活のためならば、少々、外国の神々を礼拝したって構わないし、軍事同盟も結構じゃないか、というのが大方の意見だった。
 そのような時にただ一人敢然と立ち上がって異を唱えたのが預言者エリヤであった。彼はアハブの許に単身乗り込んで行って、イスラエルの神に対する裏切りの政策を非難し、やがて神罰が下ってユダの国は旱魃に襲われるであろうと宣言した。
 しかし時の権力者にこういうことを言えば、ただで済まないことは言うまでもない。エリヤは預言者であったから公然と処罰されることは免れても、暗殺される怖れは十分にあった。それで彼は、身を隠さねばならなくなった。
 冒頭の聖書は、その時の神の言葉である。ユダの国の中でもっとも偉大な預言者は、神の計らいによってユダの国でもおそらくもっとも弱く貧しい一人であったやもめ女の保護を受けるようにと命じられたのである。歴史や世界の営みは必ずしも、いつも強者やエリートたちの手に委ねられている訳ではない。神は、その転換をあえて弱い人間の手に委ねることもあるのである。
 とは言え、そのやもめ女は今や弱さの極みに立っていた。神が下した旱魃は、理不尽にもまず一番貧しい人々を苦しめた。彼女は既に食べるものも底を尽き、頼れる身寄りも無く、幼い一人息子と心中しようと思いつめていた矢先であった。
 経済発展の陰でその恩恵に浴すことも無く、ただそこで生じた混乱の影響だけを被ってしまう貧しいやもめ女の姿・・・そこには、いつの世にも共通する人間社会の矛盾が露呈している。しかしそれでは、弱い人間はただ何もなしえないままに捨て置かれているのか、貧しい人間には神の顧みも与えられないのかと言えば、決してそうではないのである。
 神は今やそのような弱く貧しい人間の力を用いようとされる。やもめ女の力を借りてご自身の預言者の働きを助けようとなさるのである。
  神は預言者エリヤの口を通して、やもめ女に対してご自身が立てた預言者(エリヤ)を養うようにお命じになった。自分たちの食事にすら事欠いていたやもめ女に対して、そういう依頼をなさったのである。「まず、私のためにパンを作りなさい」とエリヤは彼女に要求した。そして、そうすればその後、「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない」と約束したのである。
 それに対して彼女は驚くほど従順に従った。自分たちのためにとっておいた最後の一握りの小麦粉を惜しみなく捧げたのである。
この展開から言えることは、このやもめ女が余分な食料を持たないことを理由にエリヤの要求を拒んだなら、彼女は永久に歴史や世界の営みに関ることは出来なかったということである。おそらくは、そのわずかばかりの小麦粉を後生大事に抱え込んで死んでいくことができただけだろうと言うことである。
 私たち人間が持ち物にこだわるのは、今日を、明日を、あさってを自分の力だけで生きてゆかねばならない、頼れるものは自分しかいないという錯覚に由来している。そのように神様のことを忘れて人生を考えるときに、せめてもの気休めに頼るのが持ち物である。そして持ち物に頼り始めると、それを失うのが怖くなる。持ち物を守ること、持ち物を増やすことが人生の最大の関心事になるのである。しかしそうなったときには、その人の人生はそこで暗礁に乗り上げる。もはや前進することはありえない。
しかしこのやもめ女は持っている全てを神の働きのために捧げつくしてしまったことで、新しい人生を発見しようとしている。彼女は、エリヤへ供したなけなしのパンによって、神の大いなるみ業をその目で見ることを許される。
 「かめの粉は尽きず、瓶の油は絶えない」ばかりでなく、その後、彼女の息子が死んでしまったときには、その復活をも目の当たりにするのである。彼女は、預言者エリヤというユダの国にとっても神にとってもかけがえのない偉大な預言者を保護したばかりでなく、彼女自身も、新しい人生、神のみ業の証人(目撃者)としての人生を歩み始めたのである。
 彼女のやもめ女という弱い境遇はその後も変らなかったろうし、絶えず食料の残量を心配するという貧しい暮らしぶりもそのままであっただろう。しかし、彼女はもはやエリヤに出会う以前の彼女のように、弱さや貧しさに明日のことを思い煩って世をはかなむような人生とは決別したに違いない。
なぜなら、神がどのように歴史と世界とを導いておられるかを垣間見たからである。そしてその歴史や世界の只中にあって、自分のように弱く貧しい人間もまた神の豊かな顧みの許に置かれていることを知りえたからである。
 ただ、このやもめ女のように神の器として、神の求めに応じて自らの全てを捧げることの出来たものだけが、そのような神の世界支配の奥義を垣間見ることが許されるのである。
 だから、神があなたに何かを求めておられると感じたならば、今、持ち合わせている全てを持ってお応えすべきである。自分は弱いとか、貧しいとか、十分な持ち合わせが 無いとか、そんなことは考えなくてよいのである。神は全てをご存知の上で、弱く貧しい者たちにご自身のみ業を手伝うようにお求めになっておられるからである。



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