6月のメッセージ「主の来臨の希望」
宇佐美節子(神辺教会牧師)
列王記上17章8節以下
ルカによる福音書21章25〜36節
25 「それから、太陽と月と星に徴が現れる。地上では海がどよめき荒れ狂うので、諸国の民は、なすすべを知らず、不安に陥る。26
人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うだろう。天体が揺り動かされるからである。27
そのとき、人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗って来るのを、人々は見る。28 このようなことが起こり始めたら、身を起こして頭を上げなさい。あなたがたの解放の時が近いからだ。」
29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。31
それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。33
天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
34 「放縦や深酒や生活の煩いで、心が鈍くならないように注意しなさい。さもないと、その日が不意に罠のようにあなたがたを襲うことになる。35
その日は、地の表のあらゆる所に住む人々すべてに襲いかかるからである。36 しかし、あなたがたは、起ころうとしているこれらすべてのことから逃れて、人の子の前に立つことができるように、いつも目を覚まして祈りなさい。」
風はわたしたちが思う以上に大きな力があります。暑さを凌がせてくれるやさしいそよ風、自然を破壊する威力を発揮する暴風…。ところ、がわたしたちの毎日の生活の中では、風を肌で感じたり、風そのものを強く意識したりする機会は、 以前に比べてあまりないかも知れません。むしろ、風というものの中に、何か不思議な力があると信じる人たちの思いが、大きな広がりをもって受けとめられているのではないでしょうか。
最近、風をテーマにした歌やストーリーが人々の共感を呼んでいるのを感じます。あの「千の風に乗って」のように。
2000年前、主イエスの弟子たちの群れに“不思議な力”が与えられたことを聖書は伝えています。ペンテコステ(聖霊降臨)は、イエスがかねてより遣わされると約束しておられた聖霊が、弟子たち一人ひとりに与えられました。それはまさに風のようであったと言います。この風が弟子たちを励まし、勇気づけ、喜びと希望をもってキリストの福音を証しする伝道者としてこの世へ押し出していく新しい力となりました。
それ以降、キリストを信じる共同体(教会)の歴史は、風に吹かれ、霊に押し出されて行く歩みとなったのであります。
聖書の25〜28節は、終末をめぐる心構えが示され、人の子(イエス)の再臨について記されています。
イエスが、最初に世に来られたのは、馬小屋に救い主として誕生した時でありました。それと全く対照的に、再び来られる時は大きな権威を有し、恐るべき審判者としてこられます。その来臨は、ベツレヘムというイスラエルの一寒村ではなく、世界中が認めざるを得ない明らかな形で起こるのであります。イエスを信じていない人々も、否応なく再臨のキリストであるイエスを見なければならないのです。
29節からは、終末に関する出来事を更にわかりやすくするために、たとえを引いて説明しています。25,26節で述べられたことが起こるのを見たら、神の国の近いことを知れ、という実物教育であります。他人の意見や噂に惑わされ恐れてはならないのです。判断出来る基準は、「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」という主イエスの言葉であります。
イエスは、弟子たちだけではなく、その後、幾世紀にも亘って続く信仰者達の苦しみと動揺を思って、注意を与えられます。わたしたちは、決して強くない存在なのであります。だから、自分に対する注意を怠ってはならないのです。その日は、一人の例外もなく、全人類に臨むからであります。準備していない人々に対して、その日が不意に罠のように襲うということをイザヤは警告しています(イザヤ書24章17〜18節)。そして最後に祈ることが命じられています。キリスト者の祈りは、不安に陥ったとき初めて祈るというようなものであってはなりません。木の芽を見ると、夏の近いことが分かるように、キリスト者は終末に起こる大きな異変と共に新しい時代が到来しつつある事を知っているからであります。キリスト者は、その確信をいっそう深められて祈るのであります。
イエスが世に来られた時代以降、長い年月に亘ってキリスト者は、苦難に遭遇してきました。教会の歴史は、苦難の歴史でもあります。現在でも、国情によっては、迫害に耐えている兄弟姉妹がいます。しかし、わたしたちは、確実に終わりの日が近づきつつあることを思い、使徒パウロの言葉に励まされ、望みを持って祈ることが出来るのです。「今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光りの武具を身につけましょう(ロマ書13章11節b〜12節)。」
キリスト者は、どんな時にも目を覚まし、信仰的自覚と祈りとを基本とする生き方をする。そのことがここで説かれています。わたしたちは、未来に向かって神の国、神の支配がやがて世界にもたらされるという希望に向かって信仰を貫いて行きたいと願っています。
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