8月のメッセージ「共に苦しみ、共に喜ぶ」
沖村 裕史(三原教会牧師)
コリントの信徒への手紙一 12章14〜26節
体は、一つの部分ではなく、多くの部分から成っています。足が、「わたしは手ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。耳が、「わたしは目ではないから、体の一部ではない」と言ったところで、体の一部でなくなるでしょうか。もし体全体が目だったら、どこで聞きますか。もし全体が耳だったら、どこでにおいをかぎますか。そこで神は、御自分の望みのままに、体に一つ一つの部分を置かれたのです。すべてが一つの部分になってしまったら、どこに体というものがあるでしょう。だから、多くの部分があっても、一つの体なのです。目が手に向かって「お前は要らない」とは言えず、また、頭が足に向かって「お前たちは要らない」とも言えません。それどころか、体の中でほかよりも弱く見える部分が、かえって必要なのです。わたしたちは、体の中でほかよりも恰好が悪いと思われる部分を覆って、もっと恰好よくしようとし、見苦しい部分をもっと見栄えよくしようとします。見栄えのよい部分には、そうする必要はありません。神は、見劣りのする部分をいっそう引き立たせて、体を組み立てられました。それで、体に分裂が起こらず、各部分が互いに配慮し合っています。一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。
わたしたち一人ひとりの賜物は、人の益となる奉仕のために聖霊からいただいたものです。このことを忘れるとき、霊の賜物は、その違い、相違ゆえに、争いのもとになるでしょう。事実、コリント教会の中にそういう争いがありました。ですから使徒パウロは、今、人のからだを譬えに用いて、人と人とのつながり、共同体のあるべき姿を語り、この地上に生きるすべての人々が、キリストをかしらとする一つのからだにつながれ、互いはそれぞれ違った賜物を持ちながらも、一つの目標、愛と平和の神の国に生きるように召されているのだと、語ります。それもただ、みんな違ってそれでよいというのではなく、互いが互いを必要としている、誰も一人だけでは存在できず、まさにすべてのものが、互いにとって欠くことのできない、かけがえのない存在なのだ、パウロはそう語ります。パウロのこの言葉は、平和を生きるようにと召されたわたしたちにとって、とても大切な言葉です。
金子みすずという童謡詩人をご存知でしょうか。1903年、山口県長門市仙崎に生を享けたみすずは、家業の書店を手伝いながら、13歳の年から童謡を作り続けます。20歳のとき兄の結婚もあって、仙崎を離れて下関で書店を営む親戚の家に転居することとなります。23歳、みすずは結婚いたしますが、夫に詩を書くことも、友人と文通をすることも禁じられ、しかも、夫の放蕩ゆえに性病を移され、26歳のとき、ついに離婚します。愛する娘の親権を巡って精神的に追い込まれ離婚からわずか2ヶ月後、みすずは悲しみのうちに死去いたします。
死後、みすずの詩は高く評価されます。その中でも最もよく知られる詩、「大漁」という詩があります。
朝焼け小焼けだ/大漁だ/大羽鰮(おおばいわし)の/大漁だ。
浜は祭りの/陽だけど/海の中では/何万の/鰮のとむらい/するだろう。
決して幸せであったとは言えないその人生の中で詠まれたみすずの詩には、自然と人、この世界に生きる小さく、弱いものへ向けられた、優しい、慈愛あふれるまなざしがあります。その詩のすばらしさは、読む者の魂を、静かに、しかし、確かな力で揺さぶらずにはおられません。そして、ここで特にご紹介したいのは、「私と小鳥と鈴と」という、こんな詩です。
私が両手をひろげても、
お空はちっとも飛べないが、
飛べる小鳥は私のように、
地面(じべた)を速くは走れない。
私がからだをゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
たくさんの唄は知らないよ。
鈴と、小鳥と、それから私、
みんなちがって、みんないい。
いのちを与えられたすべてのものへの愛のまなざしがここにはあります。一つ一つのいのちが持つ違いを、賜物として慈しむ信仰がここにはあります。同時代を生きた島田忠夫という詩人は、そんなみすずの詩について、こんな風に紹介しています。みすずは、恩師西條八十が訳したヨーロッパの詩人たちから大きな影響を受けた。特に、クリスティナ・ロセッティは「風」「花の教」などで神の存在を叙情詩に託した詩人として知られているが、みすずは、そうした詩人たちからごく自然な形でキリスト教の影響を受けていたのだ、と。大変示唆的な言葉です。みすずと詩との出会いの中には、みすず自身も気づいていなかった神との出会い、予期せぬ出会いが備えられていたのかもしれません。
しかし、確かにそうしたキリスト教的な影響があっただろうことは否定できないにしても、みすずの感性は、幼少期を過ごした仙崎という風土、彼女の詩に「仏さまのお国」といった詩があることからもわかるように、やはり、もっと日本的、仏教的なものだと言わざるを得ないのではないでしょうか。「みんなちがって、みんないい」というみすずの言葉には、先ほども申しあげたように、いのちを与えられたすべてのものへの愛のまなざし、一つひとつのいのちが持つ違いを賜物として慈しむ信仰が表現されています。しかし、それはただ、「みんなちがって、いい」、つまり違いを受け入れ、許容する、そこに留まるものです。あれでもこれでもよい、といった日本的で、仏教的な、融通無碍の心境です。その度量は広く見えますが、しかし、小さく、弱いものは、はかなく打ち捨てられていく、それを美しいと感ずる、諦観の美学とも呼ばれる諦めの信仰がそこにありはしないでしょうか。
パウロがここで語る言葉は、しかし、「みんなちがって、そしていい」という信仰とは少し趣を異にするものです。それは、「みんなちがって、そしてみんなかけがえない」と言えるものです。違っていい、いえ、むしろ、違いこそが恵みなのです。花でも、動物でも違いがあって、美しく、豊かで、楽しいものとなります。ちょうどコーラスで、高音部と低音部が調和して、美しいハーモニーが生まれるように、違いは、ただ違うというだけでなく、それがハーモニーとなることで、本当にすばらしいものとなります。神はそのように、わたしたちをつくられ、わたしたちを召してくださっているのです。
しかし、違いゆえにわたしたちはしばしば、反目しあいます。その方が多いかもしれません。「もし足が、わたしは手ではないから、からだに属していないと言う」ようになります。しかし、手は手としての良さを持ってはいても、反対に、手では見ることも、嗅ぐことも聞くこともできません。このようにわたしたちは、互いにその良さとともに、弱い点を持っています。ところが、わたしたちの生きるこの世の価値観から申しあげると、とかく、良い点として上げられるものは、強さであり、誇りであり、他に対して優る所となります。その時、わたしたちは他の人を必要としない、と思い上がる人間にならないでしょうか。つまり自我の働きで、他を自分の優位に立つ道具にするのです。その時、キリストのからだは崩壊します。
わたしたちは、病床の姉妹兄弟を見舞いに参ります。そのときわたしたちは、わたしたちが励ますのではなく、逆に、病を持って苦しんでおられる方に力づけられ、その信仰によって励まされることが幾度もあります。病や障害を隔離し、離してしまう、今の社会こそが間違っています。病や障害、弱さや小ささは邪魔だという考えは、経済的な効率だけを優先する社会の価値観です。そこでは、あらゆるものが同じスケール、価値基準によって測られ、その違いが優劣、用・不要の基準となります。その様な社会では、不思議なことが起こります。ある大国の主張する正義が、すべての国々の基準となり、ある大きな企業の論理が、世界経済のスタンダードになります。そこからはみ出したものは、不正義の、糾されるべき、あるいは不要な国、人となり、侵略され、支配されます。わたしたちの身近にも、「よい子」だと言われているこどもたちの中に、残虐な行為を平然とするこどもたちがたくさん育ってきます。
「相違を越えて一つのからだとなる」ということは、ただ「相違を受け入れる」ことではなく、「相違を必要とする、かけがえのないものとする」ということ、パウロの言葉は、そのことをはっきりと語っています。「弱く見える肢体がかえって必要なのである」。そうです、「かえって必要なのである」という言葉は「はるかにもっと必要だ」という意味合いをもつ言葉なのです。
わたしたちの間に平和があるようにと祈ってくださった主が、わたしたちに指し示してくださっている真理、それは、わたしたちの関係、つながり、共同体で必要なのは、この弱さということなのではないか。弱い部分をもたない、関係、共同体、社会は病んでいます。また、パウロがここで、「他よりも弱く見える肢体」とか、「他よりも見劣りがすると思えるところ」と注意深く表現していることに気づかれたでしょうか。決して「弱い」とか「見劣りがする」と、断定する言葉を使っていません。それは、ただ人間にとって、わたしたちの愚かな心にそう映るだけなのです。つまるところ、それらは、人間の目に、この世の基準で、弱く映り、人に見劣りがすると思えるのであって、神の目から見ての話ではありません。
そしてそのことは、またあなた自身にも言えることです。自分がいつも劣等感に悩む人は、それが自分にとってそう見えるだけだということを忘れないようにしなければなりません。神は、わたしたちを愛するにふさわしいからではなく、神の愛ゆえに、愛する子としてくださったのでした。しかもあなたにとって見劣りがすると思えるところを、神はかえって必要だと言い、そこを見栄えよくするどころか、用いてさえくさるのです。
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