9月のメッセージ「神に委ねた人の晴れやかさ」
内海 恵子(尾道久保教会)
サムエル記下12:13-25
13 ダビデはナタンに言った。「わたしは主に罪を犯した。」ナタンはダビデに言った。「その主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる。14
しかし、このようなことをして主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ。」15 ナタンは自分の家に帰って行った。
主はウリヤの妻が産んだダビデの子を打たれ、その子は弱っていった。16 ダビデはその子のために神に願い求め、断食した。彼は引きこもり、地面に横たわって夜を過ごした。17
王家の長老たちはその傍らに立って、王を地面から起き上がらせようとしたが、ダビデはそれを望まず、彼らと共に食事をとろうともしなかった。
18 七日目にその子は死んだ。家臣たちは、その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ、こう話し合った。「お子様がまだ生きておられたときですら、何を申し上げてもわたしたちの声に耳を傾けてくださらなかったのに、どうして亡くなられたとお伝えできよう。何かよくないことをなさりはしまいか。」19
ダビデは家臣がささやき合っているのを見て、子が死んだと悟り、言った。「あの子は死んだのか。」彼らは答えた。「お亡くなりになりました。」20
ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、主の家に行って礼拝した。王宮に戻ると、命じて食べ物を用意させ、食事をした。21
家臣は尋ねた。「どうしてこのようにふるまわれるのですか。お子様の生きておられるときは断食してお泣きになり、お子様が亡くなられると起き上がって食事をなさいます。」22
彼は言った。「子がまだ生きている間は、主がわたしを憐れみ、子を生かしてくださるかもしれないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。23
だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。わたしはいずれあの子のところに行く。しかし、あの子がわたしのもとに帰って来ることはない。」
24 ダビデは妻バト・シェバを慰め、彼女のところに行って床を共にした。バト・シェバは男の子を産み、ダビデはその子をソロモンと名付けた。主はその子を愛され、25
預言者ナタンを通してそのことを示されたので、主のゆえにその子をエディドヤ(主に愛された者)とも名付けた。
人生のことで、あるいは社会や歴史の事件でも、取り返しがつかないことを引き起こしてしまい、その過去をどう回復したらよいかという問題は、深刻な問題だと思います。私達はこの8月は平和のために熱い祈りを致しましたが、国家としての日本がアジア諸国やその国の人々に対して負っている問題でもあります。
今朝私達の礼拝に与えられた聖書の箇所で、ダビデはこの難問、取り返しのつかない罪に直面しております。
罪は不思議なものだと思います。不思議というのは変な言い方かも知れませんけれども、私達は、罪を不思議ではなく恐ろしいと考えます。しかし、恐ろしいだけではなく、罪を犯して恵みを知るということがあります。また、ダビデもそうでしたが、一人の人の犯した罪が、水に小石を投げ入れた時の波紋のように広がり、その結果が無限にその人の内にも外にも広がって行くことは、恐ろしいだけではなく、不思議だと皆さんは思いませんか。しかも、罪は私達が毎日犯している、最も身近なことです。
先々週は、罪のこの2つの側面を御葉に聞きました。もとはダビデ自身の罪から出たことでした。その時犯した罪は、ウリヤだけでなく何人 もの部下をも戦死させ、あるいは彼らの命を危険にさらしました。盗み、特に殺してしまったという罪は取り返しがつきません。ダビデは預言者ヨナタンから自分の犯した罪を責められて、自分の恐ろしい罪を初めてハッキリ知り、「私は主に罪を犯しました」と告白しました。ダビデが自分の罪を認めたのは、預言者ナタンの指摘があったからだけではありません。詩篇51編からもみ言葉を聞きましたが、「悔い砕かれた魂」という深い信仰を持つダビデの信仰がありました。主は、ダビデの粉々に砕かれた悔改めた心に、罪の赦しの恵みを語られました。13節「主があなたの罪を取り除かれる。あなたは死の罰を免れる」と。ダビデの罪は確かに赦されました。
しかし、もう1つのことが、続く14節に記されています。「しかし、このような事をして、主を甚だしく軽んじたのだから、生まれてくるあなたの子は必ず死ぬ」。この神様の御言葉は、とてもデリケートな心でなければ読めない言葉だと思いますが、私達にとっても重要ことが示されています。ウリヤを殺し、彼の妻を奪ったダビデに対しては罪の赦しが与えられ、ダビデは死の罰を免れました。けれども、ダビデとバト・シェバの間に生まれた子供は死ぬと言われるのです。罪が取り除かれる事は、神様の恵みです。それなのに、なぜ、ダビデの子は死ななければならないのでしょうか。罪が赦されたのに、なぜ子供は死ななければならなかったのでしょうか。ダビデは、どのような信仰を持って、この事を受止めたのでしょうか。
主は、ナタンが預言したとおり、ダビデの罪に報いられました。私達は人生が厳しいものだと知っているつもりです。けれども、自分の犯した罪が他に影響を与えるようになった時、人生は厳しいと思っていた自分が、まだ甘かったとしみじみ感じるものだと思います。そのような経験が私達にもあると思います。ダビデは、最愛の息子にそれがかかってきたのです。
子供を失った親は、特に自分が不注意だったわけでないにしても、自分に責任があると責めて狂おしいほどに嘆きます。しかし、ダビデは、自分の罪の故に、子供が病気になったのです。それはダビデにとって、本当に辛いことであったことは疑いようもありません。16節と17節を見ますと、ダビデはその子のために部屋に閉じこもり神に願い求め、祈りました。ダビデは断食し、地に伏しました。その子は「7日目に死んだ」と書いてありますから、殆ど1週間食を断ち、地にひれ伏して、神様に癒してくださるよう祈ったのです。ダビデ王の家臣たちは、ダビデの身を案じました。ダビデを地面から起き上がらせようとしましたが、しかし、ダビデは頑ななまでに、それを拒み続けました。他に何をする気持ちもなかったのです。子供のために祈りながら、ダビデは何を考えたでしょうか。
子供のことで頭が一杯で何も考えられないという事もあるでしょう。しかし、この子の病気が、自分の罪に関係があるとすれば、どうしても、その罪のことを考えないわけには行かなかったのではないでしょうか。私達が思うと同じように、罪を犯さなければ良かった、この罪を赦していただきたいと、どんなに悔やんだことかと思います。しかし、今は、どう言ってみても、事実を打ち消せるものではなく、今更取り返しようがありません。ただその罪が赦されることだけが願いです。
神様は、ダビデの罪は赦したと言われたのです。赦しは与えられています。しかし、その赦しを信じなければ、本当に赦されたことにはなりません。それを信じさせていただかなければ、赦しはないのです。
考えてみると、いろいろなことが私達の信仰を妨げています。私達自身の不信仰が原因であることは言うまでもありません。しかし、それだけではないかも知れません。ダビデは神様から、「あなたの罪を取り除かれる」(13)と言われましたけれども、今、このように、この子が病気なのは、自分の罪が赦されてはいないのではないかと思ったかも知れません。自分の罪が除かれたのなら、そのしるしに、この子を癒して下さいと祈ったかも知れません。しかし、ダビデの罪と子供の病気のことは、神様がお定めになることです。悪いことをした人がいつも、皆不幸になったわけではありません。同じように、正しい生活をしていれば、何の不幸もないということだって言えないのです。
ダビデの場合も、その子が呪われているということでは決してありません。しかし、現実として、ダビデにとって自分の子供が日々弱ってゆくことは、身が引き裂かれる思いであったに違いありません。だからこそ、何とかして神様の憐れみによって、その子が生かされるように祈りました。悔い砕かれた姿でダビデは徹夜の祈りをしたのです。しかし、7日目にその子は死んでしまいました。
ダビデの家臣たちは「その子が死んだとダビデに告げるのを恐れ」(18)ました。子供が病気の時でさえ、食事もしないほどでしたから、今その子が亡くなったことを聞いたら、「何か良くないことをなさりはしまいか」(18)と心配したのです。けれども、「ダビデは家臣たちがささやき合っているのを見て」、それと悟ります。「あの子は死んだのか」。彼らは応えました。「お亡くなりになりました」(19節)。
するとどうでしょう。「ダビデは地面から起き上がり、身を洗って香油を塗り、衣を替え、礼拝をし、それから、王宮に戻って食事をした」というのです。家臣たちは驚きました。これは、彼らが予想もしていなかったことでした。子供がとうとう死んでしまったというのに、今までよりも大声で泣き、叫んでも不思議はないのです。一体どういうことでしょうか。
しかし、罪を悔改め、砕けた魂となって主の憐れみを祈ったダビデにとっては、そうする事が唯一の神様への応答でした。次の言葉にダビデの気持ちがよく表されています。22-23節です。「子がまだ生きている間は、主が私を憐れみ、子を生かして下さるかも知れないと思ったからこそ、断食して泣いたのだ。だが死んでしまった。断食したところで、何になろう。あの子を呼び戻せようか。私はいずれあの子のところに行く。しかし、あの子が私のもとに帰って来ることはない」。
ダビデは、決して子どもを亡くした悲しさを忘れたわけではありません。それどころか、この子の死は、ダビデの生涯にわたって心の痛みであったのではないかと思います。しかし、今、自分がすべきことは何かを考えるならば、その子どもの死を受け入れて、主の求めておられる事を行うことではないか、と。そこでダビデは身を起こして礼拝をし、日常の生活へと帰りました。ダビデが断食を止めたのも、神様の御心と思ったからです。
聖書の中に、ヨブ記というクリスチャンに愛されている物語があります。ヨブの信仰があまりに立派なので、ヨブを誘惑したいとサタンが神様に申し出ます。すると神様は、ヨブの命にだけは手出しをしないことを条件に、サタンの為すがままを許可します。勿論ヨブはその事を知りません。ある日ヨブは、突然一切を奪われました。財産も家族も体は出来物で覆われ、何もかも失ってしまいました。その時ヨブは1:20節で言います。「私は裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめ讃えられよ」。ダビデが言ったことと同じ内容のことです。さらに、ヨブはその時、「立ち上がり、衣を裂き、髪をそり落とし、地にひれ伏して言った」と書いてあります。ダビデも起き上がって身支度を整えて礼拝したと書いてあります。ヨブもダビデも、同じように、先ず礼拝をしたと言うのです。
礼拝ですから、当然、神様を讃美します。神様に全てを委ねるならば、神様を礼拝する者となり、逆に申しますなら、礼拝する人は、神様に全てを委ねることができことが出来ます。礼拝をする時、私達は讃美をし、御言葉を聞き、献金も致します。その時私達はヨブやダビデのように、完全に神様にお委ねするのでなければなりません。礼拝で願いをし、泣いて訴え、苦しんで祈っても良いでしょう。しかし、その目的は、自分のしたいようにして下さいと願うことではありません。心から、主がなさるように、全てを信頼してお任せするのです。本当にそれが出来れば、私達は、今までの事は忘れてしまったように、神様に全てを委ねた者の晴れやかさに帰る事ができます。しかし、そのためには、ダビデやヨブのように苦しみ抜いて祈らなければならないかも知れません。
ダビデは愚かで恐ろしい失敗を繰り返しました。けれども彼は、神様に対してはどんな時でも誠実であり、一切を神様に委ねて悔いない人でした。それは、罪を犯した結果をただ正直に受け取ったということだけではありません。神様のなさることをそのまま受け取ることが出来たのです。ダビデは本当に祝福された人であった思います。
罪深いダビデのために、何の関係もないような子どもが死ななければなりませんでした。悲惨なことですけれども、不合理とも言えますが、私達の人生にはこのようなことは、決して珍しいことではありません。今日でも親の罪のために子供が犠牲になっているということは多くあります。罪の赦しには犠牲だけでなく、さらに償いが必要です。罪を犯した時、誰かが自分のために苦しみ、償いをし、祈って下さっています。私達はこうした罪の不思議さを思わず、罪やその赦しを余りに簡単に考え過ぎているのではないかと思います。
ダビデに新しく生まれた子供はソロモン・シャローム・平和と名付けられました。人間に要求しても不可能な、過去の克服を求める期待や願望が表されています。しかし、その期待はソロモンに果たせるものではありません。
イエス様は、マタイによる福音書12:42節で、「ここに、ソロモンにまさる者がある」と言われました。私達の罪は、罪のないキリストによって贖われ、今は義とされているのですから、誰でもがやり直しできるのです。私達だけでなく、どんなに取り返しがつかないと思われる過去の重荷に苦しんでいる人々にも、既にイエス・キリストの中に新しい出発が用意されています。やり直し・取り返しのつかない人生や歴史はありません。それはどこにもありません。イエス様が全てを受止め、取り返してくださっているからです。
今朝与えられた新約聖書のローマの徒への手紙の御言葉をもう一度聞きましょう。32節です。「私たち全てのために、その御子をさえ惜しまずに死に渡された方は、御子と一緒に全てのものを私達に賜らないはずがありましょうか」。 |