11月のメッセージ「笑い」
本竜 晋(福山東教会牧師)
創世記18章9〜15節
9 彼らはアブラハムに尋ねた。「あなたの妻のサラはどこにいますか。」「はい、天幕の中におります」とアブラハムが答えると、10 彼らの一人が言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずここにまた来ますが、そのころには、あなたの妻のサラに男の子が生まれているでしょう。」サラは、すぐ後ろの天幕の入り口で聞いていた。11 アブラハムもサラも多くの日を重ねて老人になっており、しかもサラは月のものがとうになくなっていた。12 サラはひそかに笑った。自分は年をとり、もはや楽しみがあるはずもなし、主人も年老いているのに、と思ったのである。13 主はアブラハムに言われた。「なぜサラは笑ったのか。なぜ年をとった自分に子供が生まれるはずがないと思ったのだ。14 主に不可能なことがあろうか。来年の今ごろ、わたしはここに戻ってくる。そのころ、サラには必ず男の子が生まれている。」15 サラは恐ろしくなり、打ち消して言った。「わたしは笑いませんでした。」主は言われた。「いや、あなたは確かに笑った。」
聖書には、幾つかの笑いどころ、つっこみどころをもって読んでしまう箇所があります。ここに出てきます、信仰の父と呼ばれるアブラハムは、100歳で、神に祝福されて、90歳の妻サラとの間にイサクをもうけました。その際、神がアブラハムにイサクの誕生を予告した時、アブラハムは「百歳の男に子供が生まれるだろうか。九十歳のサラに子供が産めるだろうか。」と笑って言っています。その為、「彼は笑う」という意味のイサクと名づけることになりました。勿論、サラもこのイサク誕生の予告を聞いた時、笑っています。それがこの箇所です。サラは疑いを持ちながら笑ったのです。そこで、「主に不可能なことなどあろうか」と神に怒られています。その時、となりにいたアブラハムは知らん振りをしている状態。
私がアブラハムなら、神の一言で笑ったサラに対して、どうしたでしょうか。怒りにある神の前で、「妻の不信仰は私の責任です。神様、私を罰してください」といって、かばうのが普通ではないでしょうか?未婚の私ですから、実例がないので何でも言えます。
ここでのアブラハムは、神から「なぜサラは笑ったのか」との問いに答えることもできず、ただ沈黙し、まるで他人事のようです。恐ろしくなったサラは一言、「私は笑いませんでした」と自分のしたことを打ち消すのが精一杯でした。そこで神から「たしかに笑った」と突っ込まれます。それでも、アブラハムは一切出てきません。
ここでサラが笑ったこの笑いは、どういった笑いでしょうか。旧約聖書ヘブライ語には二つの「笑う」という単語が出てきます。一つは「ツアーハック」。アブラハムが笑った、サラが笑ったこの笑いです。ふざけて笑う、冗談で笑う、自慢して笑う、戯れて笑うなどの意味がある言葉です。イサクという名前は、この単語を語源としています。そしてもう一つは、「サーハック」。「天を王座とする方は笑い」「笑っていても心の痛むことがある」「泣くとき、笑うとき」という聖句に使われます。あざける、あざ笑う、いやしめる、楽しむ、戯れる、ほほえむなどの意味がある言葉です。
どちらの単語にも、それほど「笑い」というものには良い印象はありません。新約聖書を見ていきますと、動詞で「ゲラオー」という単語で僅か2回しか出て来ません(ルカ6章21-25節)。名詞で「ゲロース」といいますが、それも1度だけしか出てきません(ヤコブ4:9)。新約聖書の人々は、「笑い」が嫌いだったのでしょうか。「福音(ユーアゲリオン)」ということばは、ユー(喜び)のゲリオン(訪れ)という意味なのに。
そもそも笑いとは、どういうものなのでしょう。アリストテレスは、「笑いによって人間が他の動物と区別される」と考えました。もっとも時代により、また社会によって、人間の笑いの評価の仕方が違っていることも確かです。
しかし、聖書の中ではどうでしょう。あまり笑いはありません。少なくとも元気な笑いは、聖なることに反すると見られています。旧約聖書のシラ書21章20節にはこのような言葉があります。「愚かな者は、大声で笑い、賢い人は、笑っても、物静かにほほえむ」
旧約聖書の時代、笑いは、異教徒のものでした。なぜならカナンの神々は笑い、大騒ぎをしたからです。こうした異教徒の神と比べて、イスラエルの神「ヤハウェ」には、陽気や温和のかけらも無く、ただ恐ろしく描かれています。そのなかで唯一の譲歩として、嘲りの笑いのみが出てきます。「天を王座とする方は笑い、主は彼らを嘲り」と詩編2篇4節に書かれてあるように、軽蔑の笑いだけが、神に従わない者に対する主の厳しさと矛盾しないものだったのです。
更に、古代のユーモアの傾向は、人々と一緒に笑うよりは、人々に対して笑うことでした。聖書で描かれている多くの笑いは、軽蔑と嘲りの笑いです。古代イスラエル人のユーモアは、誰かを犠牲にすることでした。それは、主の前では無力である近隣の民の偶像であったり、奇妙な名前と姿をした近隣の民(創25:25)であったり、英雄が敵を打ち負かした敵であったりします。神が笑っている旧約聖書の表現も勿論、笑いは、地上の悪者、神を信じない者の生き方に対する嘲りとして描かれているのです。ここでは、人間が自分自身や自分の悪巧みをとてもまじめに取り上げるので、神は笑うのです。神の笑いは、ユーモアのセンスではなく、神の優越性を伝えることになっているのです。
新約聖書でも、同じように笑いは殆ど書かれておりません。キリスト者の生活を特徴づけている喜びとうれしさに触れているところでも、そこで使われている言葉は、どっと笑う喜びよりも抑えられた和らげられた喜びになっています。
そしてまた、イエスが笑ったことを福音書が伝えていません。福音書は、主の涙については語っていますが、主の微笑みについては記録していません。イエスは怒った。イエスは疲れた。イエスは大きな誘惑に遭われた。しかし、イエスの笑い、いや微笑みについては、一言も触れていないのです。初代教会では、このイエスが笑ったという記述がないことから、聖書が笑いについて沈黙していることから、キリスト者は笑うべきではないという風潮になっていきました。笑いではなく、涙がここ地上の巡礼のしるしであると、初代教会の指導者達は考えました。ルカによる福音書6章25節に書かれている「今笑っている人々は不幸である。あなたがたは悲しみ泣くようになる」という主の警告の文字通りの解釈に基づいて、「笑いは、罪ではないと思われるが、罪に導くものである」という風潮へと、キリスト教の歴史の中で考えられるようになったのでした。したがって、キリスト教では、見せかけの笑いと歓喜に反対の意思を表していたのです。
この伝統は、中世ヨーロッパそして、17世紀・18世紀まで続きました。もしかしたら今でも続いていると言えるところがあるかもしれません。イエスが笑ったという明らかな記述は無く、勿論、イエスは私生活で何をしていたか、趣味は何だったかなんて話は、福音書には明らかに記録されていません。大工の子供だった。そして30歳くらいから伝道活動を始めた。その程度しか福音書には記されていません。
このような、イエスの情報の隙間については、様々な伝説が生まれました。しかし、「笑うイエス」の姿を育てることはあまりありませんでした。確かに微笑む幼子イエスの姿はいくつもあります。でも笑いはなかなか出てきませんでした。
それは、ヨーロッパの哲学思想に、「笑い」というものに対し、低い尊敬しか払われていなかったことに理由があります。古代ギリシア人達は、完成した道徳の理想的姿から笑いを外していました。その主な理由は、ギリシア人達が喜劇を基本的に残酷なものとして理解していたからです。プラトンは「人間は友人の不幸を笑う」と言いました。キケロは「人間は卑しいこと、不名誉なことを笑う」と考えました。プラトンやソクラテスの伝記によれば、彼らは決して笑わなかったと言います。こうした伝記は、おそらく彼らが道徳的に正しく偉大であることを強調したかったのでしょう。同じように、初期のキリスト教の著作家たちは、イエスは笑わなかったと、短絡的に書いてしまいました。イエスが笑わなかったとすることで、イエスの優れた知性を示そうとしたのです。
しかしニーチェは言いました。「キリスト者がもう少し喜びの顔をしていれば、共鳴者が増える」と。ルターもユーモアを語りました。「勢いよく罪を犯せ」、「悪魔がキリストを食べて下痢をする」などの多くのユーモアが残っています。このように、笑いがキリスト者にとって必要不可欠であると考えた人も少なからずいたということが判ります。
そして、アブラハムが笑い、妻サラも笑ったこの聖書箇所。確かにサラは笑ったわけです。ここでのサラの笑いは、あまり良い意味ではありません。でも、主の使いの一言に思わず笑ってしまったサラがいました。しかし、主から選ばれ、大きな恵みを受けて、やがて息子が産まれます。ここで「イサク(彼は笑う)」という名前を付けました。
以前、主の使いがアブラハムに同じことを告知したとき、アブラハムも笑いました。神はこれまで、何度もアブラハムに語りかけ、神の祝福を度々約束しました。アブラハムも勿論、それを信じてきました。年老いたアブラハムとサラに対して、その年老いたという現実にも関わらず、神は、子供が生まれるという約束をしました。
その時、サラは笑ってしまったのです、怒ったり、拒否したりする方がまだ、望みがあります。それは神の言葉を真摯に聞いているからです。しかし、笑ってしまったのです。相手の言うことを「笑う」ほど不快なものはありません。これは、神の約束に対する最も深い絶望です。この笑いは、現実の厳しさを前にして、人の理性と常識が生じさせたものです。彼らはまさに不信仰なものとして、私達にもっとも近い存在となりました。
しかし、彼女はその失敗から信仰へと変わりました。「神を恐れた」からです。
自らの失敗を信仰によって気づき、恥じ、自らが神が全能であることを信じていないことを知って恐れを覚えます。神にはそれで充分なのです。ここでアブラハムとサラは恵みの前に引き出されたのです。
神にとって、不可能なことがあろうか。信じるということは、実に現実の厳しさの前で笑わざるを得ないときに、なおも信じぬくことなのです。
詩編126編にこのような信仰の言葉があります。
「その時には、私たちの口に笑いが、舌に喜びの歌が満ちるであろう。
その時には、国々も言うであろう。
『主はこの人々に、大きな業を成し遂げられた」と。」
私たちの不信仰の笑いが、主の大きな御業が成し遂げられるとき、信仰の笑いに変えられるのです。「その時笑いは我らの口に満ち・・・」その時を信じましょう。 |