1月のメッセージ「主の恵の年」
石塚 一(福山延広教会牧師)
ルカによる福音書4章16〜21節
「イエスは・・・聖書を朗読しようとしてお立ちになった。預言者イザヤの巻物が渡され、お開きになると、次のように書いてある箇所が目に留まった。『主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである。』・・・そこでイエスは、『この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。』と話し始められた。」
新しい年を迎えると誰しも「おめでとう」と挨拶します。しかし少し理屈っぽく考えると、何がめでたいのか、本当のところはよく解らないのです。
一体、新年のめでたさとは何だろう。新年を喜ぶ心情とは何だろう。そこには、何かが新しくなるのではないか、変わるのではないかという漠とした期待があるように思います。
昨年は、あまり本意な生活ではなかった。景気も悪かった。世間は騒然とし、政治も停滞していた。教会の伝道活動も振るわなかった。しかし、新しい年には少しは好転するのではないか。何かが変るのではないか。新しいことが生じるのではないか。そういう獏とした期待が、昨年と今年との単なる境界点に過ぎない元旦を特別視し、めでたがる心情に繋がっているのではないでしょうか。
だが、カレンダーが新しくなっただけでは何が変るものでもない、これは厳然たる事実です。だから、年が明けて何かが変ってくれればいい、新しいことが始まってくれればいい、というような「受身の姿勢」で新年に期待をかけても、必ず幻滅をもって終わるのが常です。新年も一週間、長くて一月も経てば、それがはっきりします。昨年の「私」は今日も何一つ変らない。依然として問題をひきずったまま、更にいっそう歳をとり、理想からかけ離れ、何もできないままに日々を重ねていく。今年こそは、と迎えた新年であったのに、結局は何も新しくならなかった、何も変りはしなかった、という虚しさだけが心を塞ぐのです。
しかし、この福音書には、そういうぬか喜びのような新しさとは違った「新しさ」が記されています。
「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した。」
この日、新しい何事かが実現した。私たち人間のおかれている現実に根本的な変化が訪れた、と述べられているのです。
「・・・主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵の年を告げるためである。」
イエスは、神の恵みの日の到来を宣言されたのです。それは、私たちの否定的な現実を超えて、今、イエスの福音が語られたその時に実現したと言われているのです。生活や精神の貧しさを負い、罪と欲に捕らわれ、会社や学校の囚人である私たち、前途に希望の光を見出せない盲人である私たち、世の矛盾や不正に圧迫されている私たち、そのような私たちの生活が今や変革される。イエスの福音によって私たちを束縛していた縄目は解き放たれ、自由な人間、自由な人生という神のいにしえからの約束が実現されたと言われているのです。
このことはしかし、コタツで居眠りしていて目覚めてみたら世界が一変していた、というような話ではありません。年が明ければどうにかなるだろう、というような「受身の姿勢」で人生を送っていて認識できることではありません。このことが認識できるのは、私たちが、この今日という日をどう生きようか、ということを真剣に考えながら、聖書に問い、神に祈る時なのです。
その時にこそ私たちは、新しくされている「私」を発見します。なるほどうわべは依然として貧しく、囚人であり、盲目であり、抑圧されたままであるかも知れない。社会や周囲の環境が著しく好転しない限り、私たちの見た目の生活は以前と大差ないかも知れません。しかし、私たちは今や、それらに捕らわれ支配されて生きるのでなく、神の前に自由に生きる人間となるのです。時代や社会に押し流されることなく、否、それに逆らって、「私」はこう生きるという主体的な歩みをなしうる人間となるのです。
ですから、年が改まったからといってタナボタ式に何かが新しくなることはないけれども、もう一度真剣に自分の生き様を問い、聖書に聞くところから、神に祈るところから、私たちは確実に、年ごとに、日ごとに新しくされてゆくのです。そしてその限りにおいて、私たちが人生に迎える全ての年は、主の恵の年なのです。だから心から挨拶ができます。
2008年、明けましておめでとうございます、と。
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