3月のメッセージ 「命のパン」
宇佐美睦朗(神辺教会牧師)
ヨハネによる福音書6章34〜40節
34 そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、35 イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。36
しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。37 父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。38
わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。39
わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。40
わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
ヨハネによる福音書は、イエスの対話の相手が、イエスの言葉を誤解することによって、テーマが明らかになっていくというスタイルが多く取り入れられています。4章14節では、ある女性が、イエスの語る「永遠の命に至る水」を物質的なものと誤解して、そのような不思議な水を手に入れようとしました。
今日の聖書も、弟子たちが不思議なパンを想像して、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と求めています。それに対してイエスは、「(35節)わたしが命のパンである」と告げて、問題のパンは物質的なものではなく、イエスとの人格的な交わりを指すことを明らかにしています。
わたしは〇〇であるというのは、ヨハネ福音書独特の表現で、この後何度も出てきます。このような表現が生まれた背景は、旧約聖書において、神が自ら名乗り出られる形として定着していました。度々目にする言葉の一例として「(出エジプト記3章6節・旧約p.96)わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」というように、であります。
わたしたちは神からの語りかけによってのみ、神と出会うことができるのであります。神は恵みを持ってわたしたちに語りかけてくださる。私たちの神は語り給う神であります。特にイエスキリストにおいて、語り給うのであります。イエスによって示された神は、無情な方ではなく、恵みとまことに満ちたお方であります。
命のパンであり、世の光であり、善い羊飼いであり、まことのぶどうの木であります。「命のパン」とはそれ自体命に満ちていると共に「生命創造の力」を持つものであることを示しています。
このような命のパンを与えられているのですから、問題は人間がどう受けるかであります。「(35節)わたしに来るものは決して飢えることがなく、わたしを信じるものは決して渇くことがない」のであります。ここの来るというのは、信仰が単なる心の問題ではなく、生活を挙げての全人的な働きを示しています。
カルバンによれば、「信仰は、単にキリストをはるか遠く臨み見るのではなく、キリストを受け入れ、抱きしめ、わたしたちのものとして、自分のうちに住まわせようとするものなのです。信仰は、彼に合体させ、わたしたちが彼と一つになるようにするものなのであります。」信仰がしばしば感覚的になって、生活をかけた全身全霊のものでないことを、この言葉によって反省させられます。わたしたちは、「わたしに従ってきなさい」という主イエスの言葉に、決断して彼の元に行く、具体的な行動を伴う信仰を持ち続けたいものであります。
36〜40節は、群集の不信仰に対するイエスの批判です。「(36節)しかし、あなたがたはわたしを見たのに信じようとはしない。」ここでは見て信じる信仰のあり方が語れています。有名な疑い深いトマスへの言葉には「(20章29節)見ないで信じる者は、さいわいである」と語られていることと、対立しているように見えます。
「見ないで信じる信仰」とは、神の御心が理解できない時にも、神の真実に信頼し、人間的な疑いや、不信を克服して自分の側よりも神の側にかける一種の冒険的な信仰のあり方なのです。「(イザヤ書50章10節・旧約p.1145)お前たちのうちにいるであろうか/主を畏れ、主の僕の声に聞き従う者が。闇の中を歩くときも、光のないときも/主の御名に信頼し、その神を支えとする者が。」と書いてある通りであります。
それに対して、「見て信じる信仰」とは、神の方から差し出された神の御心を拒絶するのではなく、従順に受け入れ。それにより頼む態度なのです。
信仰の二つのあり方といえましょう。
ヨハネのこの箇所は、新約聖書の中で重要な箇所の一つといわれています。それはイエスが「わたしは命のパンである」と言われたことであります。繰り返しになりますが、
1. パンは命を支えるもの。それなしには命を存続できないものであります。
2. 命という言葉によって単なる存在以上のことが意味されています。命は神との新しい関係、わたしたちが既に聞かされてきた、信頼、交わり、従順、愛の関係です。
3. その関係は、イエス・キリストによってのみ可能になります。イエスなしには、またイエスから離れては、誰しも神との新しい関係に入ることはできません。
4. イエスが命を与えるのであります。イエスがいなくても人は生きていくことができますが、それは命とはいえません。
5. イエスが命を与えるなら、イエスが命の本質であるなら、彼を命のパンとして表すことができるのであります。イエスなくしては真の命が始まることも存続することができない、本質そのものであります。
イエスを知り、彼を迎え入れるなら、生きていくうえでの飢えや渇きは、わたしたちがキリストを知るとき、また彼を通して神を知るとき、なくなるのです。
次に、どう生きるべきかを示されています。
1. わたしたちは、イエスの姿を示されます。聖書の中にイエスを見、教会の教えの中で彼に会い、イエスに出会うのであります。
2. わたしたちはイエスを、わたしたちとはかけ離れた英雄や模範としてではなく、本の中の人物としてでもなく、そこへいくことのできる方として見るのであります。
3. わたしたちはイエスを信じます。イエスを神と人間と命についての最高の権威として受け入れることができます。それはイエスと同等になることではありません。それは服従と献身であります。
4. この過程で、わたしたちは命が与えられるのです。それは神との愛に満ちた新しい関係に入れられるのです。それは神との和解を意味します。
5. その招きはすべての人になされており、命のパンは、わたしたち自身のために獲得し、求めるためにあります。
6. イエスを通してのみ新しい関係にいたる道は開かれています。彼から離れては、神を見出すことはできません。この過程の背後には神がおられるのです。神は人間の心を動かしイエスに対する願いを呼び起こすのです。
7. 神は、服従を妨げている反抗心や高慢を取り去るように、人間の心の中に働きかけます。しかしなお、わたしたちは、頑なで神の働きかけをしばしば拒否します。それは唯一人間の反抗心です。
イエス・キリストが与えられるのは、時間の中の命と永遠の命です。イエス・キリストを受け入れるとき、人生は単なる存在ではなくなり、喜びと平和に満ちたものになります。そして、終わりの日にも恐れが生じないのです。
こんなすばらしいことは、外にないではありませんか。神からのメッセージを喜んで受け入れましょう。 |