4月のメッセージ 「心の貧しい人々は幸いである」

 

主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされて
あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです。わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり
「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。わたしの負けです。
わたしには聞こえています
多くの人の非難が。「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。「共に彼を弾劾しよう」と。わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。彼に復讐してやろう」と。
しかし主は、恐るべき勇士として
わたしと共にいます。それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく
甚だしく辱めを受ける。それは忘れられることのない
とこしえの恥辱である。
万軍の主よ
正義をもって人のはらわたと心を究め
見抜かれる方よ。わたしに見させてください
あなたが彼らに復讐されるのを。わたしの訴えをあなたに打ち明け
お任せします。
主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を
悪事を謀る者の手から助け出される。
(エレミヤ20:7-13)

イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。」(マタイ5:1-3)

 今朝から、マタイによる福音書からイエス様がなさった「山上の説教」をお聞きしたいと思います。
「幸いなるかな、心の貧しい者」と昔の聖書は訳しました。ギリシャ語の原文でも、いきなり「幸いである」と言う言葉で始まっております。その方がイエス様の思いが伝わるような気が致します。おめでとう。あなたは何と幸せな人でしょうと、イエス様は心から祝福の言葉を述べられました。なぜでしょうか。それは、あなたの「心が貧しい」からです。
 山上の説教は、祝福された貧しさが最初に語られております。1節に「弟子達が近くに寄って来た。そこで、イエスは口を開き、教えられた」とあります。イエス様の御元に弟子達が近寄って来たので、イエス様は、弟子達の生き方を教えられたのです。
 「心の貧しい人々は幸いである」。「心の貧しい人」は、やがて将来、幸いを得ると仰ったのではありません。心が貧しくて良かったねと、イエス様に従い・イエス様について行き、心貧しく生きる人は幸せだと言われたのです。私達が「幸せな人」だと仰って下さるイエス様の御言葉を、自分の耳でちゃんと聞き取る事ができるかどうか、そこに私達のクリスチャンとしての生活がかかっております。
 「心の貧しい人々は幸いである」。教会の歴史を通して、貧しく生きることは、教会としても個人としても、繰り返して、それも切実に問われてきた問いでもあります。いつか私達の教会でも、教会史という初代教会から現代までの教会の歴史を、時間をかけてコツコツと学んでみたいと思いますけれども、貧しさの道を説くイエス様の御言葉に、ある決断をして従った人々がありました。私達一人一人も、また教会としても、イエス様が「幸いだと」言われたこの貧しさをどのように生きているかという事を避けるなら、私達の信仰はいい加減なものになってゆくと思います。
 マタイによる福音書は「心の貧しさ」を語りますが、ルカによる福音書の6:20節では「あなた方貧しい人達は幸いだ」と仰っております。しかし、マタイが「心の貧しさ」を語る意味も深いと思います。それは、決して物質生活の貧しさを排除するものではなく、かえって、貧しい生活を生み出すものです。しかし、物質的に貧しければそれでよいというのでもありません。私自身は若い頃、フィリピンのスラム街で、カトリックのシスター達とかなり長い年月寝起きを共にしながら生活をした経験がありますけれども、貧困は、決してそのまま「幸い」と呼ぶことのできないものです。私達の教会は、お米を届けたり、愛の献金箱を設けておりますが、本当にささやかですけれども、教会の大事な奉仕だと思っております。
 マタイによる福音書が「心」と言っているのは「霊において貧しい」と言う意味の言葉だと言われております。
例えば、会社が倒産して、これからどのように生きていったらよいのか、生きる術を失ってゆく状態にあるとか、しつこい病に犯されて絶望に追いやられて行くとか、また権力者や侵略者によって搾取され、踏みつぶされて行くなど、悲惨な状態に永く置かれていて、自分の中にそれを乗り越える力を持たない事です。
 パウロは、このような生きるための力に恵まれないという意味の貧しい人々の姿を、Tコリントの信徒への手紙の1:26節以下に述べております。「世の無学な者、世の無力な者、世の無に等しい者・身分の卑しい者」などと言っておりますが、「世の無学な者」とは、知恵や才能に恵まれずに、自分の人生を切り開いて行く力を持たない人。「世の無力な者」とは、権力や富に恵まれず、社会の中で自分を主張する力を持たない人々です。「世の無に等しい者・身分の卑しい者」とは、普通、世間的な常識や価値観から見て評価されるようなものを持たず、人々の軽蔑の対象となってしまう人々です。このような貧しさは、人々の目には、それ自体が評価される値打ちを持たず、評価するとすればマイナスの値打ちしかない貧しさだと、パウロは言っております。
 そして、この貧しさはキリスト教の歴史のユダヤの人々において始まっておりました。先週の祈祷会においても、ユダヤ人の弱さについて質問がありましたけれども、彼らは、神の民だ、神の民だと言われながら、不運を重ねました。後の世の人が、信仰の父と呼んだアブラハムに、神様が、ご自分の示す地を目指して故郷を旅立てと告げられことに始まります。その子孫はエジプトで寄留の民となり、奴隷のような苦しみの生活から、モーセに導かれて40年もかかってエジプトを脱出します。ようやく約束の土地に着きますが、半世紀のバビロン捕囚を経験します。その後も、絶えず大国の支配下にあり、望みを新しくしては潰されてゆきます。イエス様の時代はローマの植民地でした。
 そのような経験をしながら、イスラエルの人々が深く悟らされたのは自分達の貧しさ・自分達の無力でした。自分達には、ただ憐れみを乞うて生きて行くより他に、道がないのです。それは、神様との交わりにおいても、自分の欠けしか見えて来ないような経験でした。自分の欠け・貧しさを、そのまま神様に見ていただくしかないような生活でした。
 この貧しさに正しく立ち、この貧しさに生きる事は、物質的にも貧しく生きることでしたので、多くの人は、富に心を奪われ・権力に媚び・自分に豊かさを保証してくれる力へ頼るようになります。実際に、この貧しさに正しく立つ事が出来たのは、少数の預言者達だけでした。神様の救いを待つ、それだけを待つというのは、自分の人生を支える力と希望を、人間的な次元に求めず、へりくだって、貧しい生活の中でなお信じ、かつ自分の信仰おいても欠け多い事を悲しむ生活を選ぶ事でした。貧しさを素直に受け入れ、神様の憐れみを乞う、この貧しさに生きる事をイエス様は祝福しておられるのです。
 人生はいつの時代も厳しく、過酷です。そう思います。誘惑にちょっと気を抜いて誘惑を退けなければ全てを失う事は、毎日のニュースでも耳にします。そのような意味で、戦いがあります。こうした中で、才能や富、健康や家庭に恵まれず、良き友や師との出会いに恵まれない人は、苦しい生活を余儀なくされるでしょう。このような人々の心は傷つき悩み、不安に揺れ動き、人生を諦めたり・虚無的になる事が多いのです。悲しみや涙や絶望との戦いが、このような人々の人生について回ります。余りに悲しく・不条理と思います。「心の貧しい人々は幸いである」とイエス様が仰った時、イエス様ご自身が、このような歴史の中に立たされているお一人として、イスラエルの歴史を無視されず、人々の苦しみある生活を無視されなかったのです。

 イエス様は、人々が豊かになるように配慮しようとして下さったでしょうか。否でした。「心の貧しい人々は幸いである」と山上の説教を語りながら、説教を聞くこの人々と共に「心の貧しさ」において生きておられました。
旧約聖書からエレミヤ書の20章を読みましたが、見てみましょう。エレミヤは自分では欲しなかったのに、預言者にさせられてしまった典型的な人です。それなのに、神様の御言葉を語れば語るほど、自分のみじめさと貧しさのどん底に落ち込むような経験をします。その経験が7節以下に語られております。「エレミヤの告白」と呼ばれる一部です。
 7節の後半から「私は一日中、笑い者にされ、人が皆、私を嘲ります。私が語ろうとすれば、それは嘆きとなり、「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。主の言葉の故に、私は1日中、恥とそしりを受けねばなりません」。10節「私には聞こえています。多くの人の非難が」。2行飛ばして「私の味方だった者も皆、私が躓くのを待ち構えている」。云々。この経験は、14節「呪われよ、私の生まれた日は」とエレミヤを叫ばせずにおれませんでした。エレミヤのこれらの言葉は、決して哀れっぽい言葉ではありません。ただみじめで貧しく、欠乏の中にあったのです。文字通り13節「魂の貧しい人」でした。神様との交わりにおいて、そうでした。
 ですから、エレミヤは1節でこう言っております。「主よ、あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕らえられました。あなたの勝ちです」。「あなたが私を惑わし、私は惑わされて、あなたに捕らえられました」とは、神様が強い力でエレミヤをご自分の仕事に用いるために捕らえたということです。そして、ついにエレミヤは「あなたの勝ちです」と答えざるを得ませんでした。「あなたの勝ちです」とは、「あなたは強い」という事です。自分を導かれる神様の前で、エレミヤは自分の貧しさを深く知るだけでした。欠けだらけではあっても、いえ、自分は欠けている・欠けだらけだからこそ、自分の貧しさに徹して、魂の貧しさにただ生きることが、エレミヤの全てでした。
 世界には、貧しさに徹して、様々な所有慾を捨て切った時の自己充足に生きた人々の生活を讃える話は沢山あります。しかし、聖書には、そのような貧しさに生きる自己充足・自己満足を語るものはありません。
イエス様が山上で説教を語りながら、見ておられたのは、群衆の肉体の弱さや経済的な貧しさだけではありません。その根底に・その根源に、神様がいない、神様を真実に生きておられる方として見ることができなくなっているところに生まれる貧しさ・悲惨さです。では、生活の糧は貧しいままで良いのでしょうか。貧しさは社会・共同体の責任です。私達が本当に神様の御言葉を受け入れ、御言葉に従って生きるならば、この貧しさは終わりを告げると思います。
 神様を愛する事が出来ないから、神様への愛が貧しいから、自分自身を愛するように隣人を愛することも出来ないのです。では、自分だけは愛しているかと言えば、そうでもないのです。自分そのものを正しく愛することが出来ないから、私達の間が、つまり社会は・共同体は愛が貧しくなり、責任をもって果たすべき貧しい人々への援助が乏しく、貧しさは一層深くなってゆくのです。
 不思議な事ですけれども、だからこそ、イエス様は、私達のこの貧しさを、じっとご覧になって、「あなた方は幸いだ」と仰って下さるのです。この後、4節以下の、「悲しんでいる人々」や、「迫害されている人々」・「罵られている人々」と同じように、「貧しい人々」を「幸わせである」と言われました。イエス様が約束されたこの「幸せ」・神様のこの恵みは、それを必要としている人に与えられます。なぜなら、本当に貧しいならば・自分の貧しさに心底嘆き悲しむ人ならば、神様からの恵みを必要とするはずだからです。
久保教会のある方が、求道者の方へ、静かにお話をしておられて、このような言葉をかけておられるのを聞いたことがあります。「あなたは自分の生活に満足しているから、幸せだから、決心出来ないのよ。私は神様なしには生きていけないわ」と。的を得ている言葉だと思いました。
 
 「心の貧しい人々は幸いである」。つまり「霊において貧しい人々は幸せである」というイエス様の御言葉を、聖霊によって理解し、聖霊によってイエス様へと導かれるならば、その人はイエス様の弟子となります。そして、イエス様の弟子となって、貧しくなるなら、イエス様が約束された「霊」の力によって貧しい人となったのですから、幸いです。「天国はその人達のものである」とイエス様は約束されました。神様の恵みはその人のものです。
 イエス様は、この祝福の御言葉を語るために命をかけられました。十字架の死がイエス様の上に起こらなければならない程、私達の貧しさは底なしで、罪にまみれております。けれども、私達が、十字架の愛を知り、やり直そう・生き直そう決心した時に、自分のマイナスの貧しさは、祝福された貧しさに変えていただきました。
 「幸いである。心の貧しい人は」。イエス様のこの御言葉を誇りとして、どんな時にも感謝を忘れずに、貧しさを思った時にこそ、イエス様に幸いな者とされた誇りをもって、謙遜に生きてまいりましょう。



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