A 1 <クリスチャンではないのですが、礼拝へ行ってもいいのですか?>
もちろん教会はどなたでも入れますし、礼拝はどなたでも参加できます。むしろ「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。」(マタイによる福音書11章28節)とあるように、忙しくて窮屈な生活に疲れ果て、安らぎの場所を必要としている人々のために、キリスト教会の門は開かれているのです。
A
2 <何を持っていけばいいのですか?>
ほとんどの教会では、礼拝に必要なもの(聖書・讃美歌等)は備え付けられていますので、そちらをご利用ください。ただ、礼拝の中でささげる献金(金額は自由)の準備が必要です。
A 3 <どこの教会へ行けばいいのですか?>
お近くの、通いやすい教会がよいでしょう。このホームページに西中国教区広島東分区の各教会の紹介がありますから、ご活用ください。
A
4 <どんな格好で礼拝に行けばいいですか?>
「大草原の小さな家」というテレビドラマをご覧になったことがあるかもしれませんが、平日は野良着など粗末な服装をしている人々が日曜日には一張羅の晴れ着を身に着けて礼拝に出席しています。日本でも明治・大正ころは、紋付袴やモーニングの礼装で礼拝に出席していたようです。近年ではそのような服装は見られませんが、「よそゆき」の格好で来ている人も多いようです。ラフな服装の人もいます。初めて教会を訪れる場合は、きちんとした身なりのほうが無難です。次回からはほかの出席者の服装に合わせればいかがでしょう。
A 5 <教会へ行くと、必ずクリスチャンにならなければいけないのですか?>
そんなことはありません。私たちがクリスチャンとして生きる(洗礼を受ける)決意をすることは、神の恵みと私たちの信仰によるものであり、誰かに強制されることではありません。あくまでもその方のお気持ちが尊重されます。ただし、ある程度時間が経ってから、牧師や信徒からそれとなく勧められることはあります。もし洗礼を受けようと考えておられる方は、牧師はもちろんのこと、ご家族など親しい方にもよく相談なさってから決められることをお勧めします。
A 6 <名前や住所を書かされるといやなのですが・・・>
どこの教会でもだいたい初めて行くと、名前や住所を書くようにいわれることが多いようです。これはあとから礼拝や特別な集会の案内を送るためのものであり、けっして外部に漏れるようなことはありません。もしお名前やご住所を書くのはちょっと・・・・と思われるのでしたら、受付の人に「名前(住所)は遠慮させてください」と申し出てください。しかし、礼拝は集う人の共同作業ですから、どこのだれがこの場にいるのか、ということはとても重要なことです。その意味で支障がなければせめてお名前だけでも書いていただきたいと思います。
A 7 <子どもは連れて行ってもいいのですか?>
教会によって違いますが、多くの教会は教会学校や子どものための集会を日曜の朝9時から開いています。ご都合がよろしければ、どうぞそちらから一緒に参加してください。どの年齢から参加できるのかなど、詳しいことはその教会にあらかじめご連絡をされるとよいでしょう。教会学校がない、もしくは参加できない、という方は、どうぞそのあとの主日礼拝にご一緒に参加してください。これも教会によって違いますが、親子室など小さなお子様と保護者がのんびりと過ごせるスペースが利用できることがあります。詳しくは事前に教会へお問い合わせください。
A 8 <何か物を買わされたりしませんか?>
キリスト教会でお金が必要になるのは「献金」といわれるもの以外には、基本的にありません。もし何かを強引に買わせようとしたり、会費などのお金を払うように強く勧められるようであれば、そこにはもう行かないほうがいいでしょう。ただし礼拝や聖書をより深く理解するために、なるべくご自分の聖書と讃美歌を持たれることをお勧めします。もちろん、教会備え付けの聖書、讃美歌を利用することもできます。
A 9 <礼拝ってどんなことをするのですか?>
わたし達の教会では、旧約聖書、新約聖書に記され、またイエス・キリストによって示された神さまを賛美するために、古くから礼拝という固有の儀式を行ってきました。礼拝の中ではお祈り、賛美、説教、献金などが行われ、それぞれに大切な意味があります。また聖餐式や洗礼式などの特別な儀式(聖礼典)が、礼拝中に行われることもあります。
礼拝というと、どこか堅苦しいイメージがありますが、決してそんなことはありません。礼拝は決して一方通行的なものではなく、神さま、説教者、聴衆者らが協力して創り出すものです。皆の気持ちが一体となってよい準備がなされ、神さまの御言葉がわたし達の心に力強く響いたとき、そこに喜びと安心があります。また初めて礼拝に出席された方のなかには、戸惑いを覚えられる方もいらっしゃるかもしれません。が、それまで決して知ることのなかった異質の空間の中に、もう一つの豊かな生き方、価値観があることをぜひ知ってください。.
A10 <座る席は決まっているのですか?>
聖歌隊や聖餐当番などの役割を持つ人の席が決まっている場合がありますが、基本的に自由です。遠慮せずに前のほうからお座りください。
A11 <献金はいくらくらいすればいいのですか?>
献金は神さまからいただいた様々なお恵みに対して、わたし達が感謝してお応えするものです。ですから額が決まっているわけではなく、極端に言えば0円でも100万円でも構わないのです。 献金は、あなた自身をお金≠ニいう形に変えて、神さまにささげるものですから、その意味で、あなたにとって少し痛い∞少し惜しい£度の額が献金にふさわしいでしょう。.
. A12 <お祈りは、なにを祈るのですか?>
祈りは心のドアを言葉と沈黙によってあける仕事です。普段閉じている扉を少しあけて神と人、人と人がお話をはじめます。届かない思い、やさしい心遣い、配慮、願い、苦しいときの心の叫び、感謝、告白、心の言葉に託して語り始めるとき自分の心が静かに解放されていくのがわかるでしょう。
また誰かから祈られていることを知るとき、自分が一人でないことを知ります。自分が誰かから守られ、関心をもってもらい、心を使ってもらっていることを知り、力とうれしさがこみ上げてきます。
祈りはまた自分自身の声と神の声を静かに聴いていく仕事です。自分を超える存在が自分に触れ、自分がこの世界で一人ではないこと、自分がこの世界の中心でないこと、そして主なる神の声に触れるとき自分の心と物の見方が変えられていくことを知るでしょう。
自分の心がいろんな考えや不満や不安で満ちているとき、心をゆったりと落着けて、沈黙するとき自分の空っぽになった心の中に静かな声が入り始めます。祈りはこころを静めて自分を超える存在に自分を委ね、心を開き、対話をし、一つとなる作業です。
自分がおしゃべりすることを止め、聴き始めるとき、人はいかにいろんなものを知り始めることでしょう。
礼拝におけるお祈りは、共同体における公的な祈りであって個人的なもにとどまりません。お祈りの最後に「アーメン」といいますが、「ほんとうに、そのとおり」という意味です。.
A13 <説教ってなんだか難しそう・・・>
わたしたちを生かすものはなんでしょうか。食べ物でしょうか。それとも人とのつながりや、お金によるものでしょうか。確かにそれらのものは、生きていく上で必要なものです。けれども、そのどれもが満たされても、わたし達の心がいつも喜びでいっぱいになるとは限りません。聖書の御言葉はわたしたちを内側から生かすものです。説教とはその御言葉を牧師を通して聞くことです。説教によってわたしたちは力づけられ、励まされて社会に送り出されていきます。
深遠な神の御言葉を記した聖書の世界を深く理解するには、少しばかり時間が必要なこともあります。前回よりも今日のほうが、今日よりも次のほうがきっと理解が深まることでしょう。.
A14 <讃美歌について>
私たちは神さまのお招きによって礼拝に参席しています。そのお招きに対する気持ちの表れとして、讃美歌を歌うのです。上手に歌う必要はありません。うれしいときも、そうでないときも、隣りの人と一緒に力いっぱい気持ちを込めて歌うとき、わたしたちは喜びに満たされます。讃美歌の歌詞はやや古風なこともありますが、できれば意味をよく理解した上で、かみしめて歌いたいものです。.
A15 <洗礼(バプテスマ)ってなんですか?>
洗礼(バプテスマ)は「浸す」というギリシャ語に由来した言葉です。伝統的に、教会では罪から逃れられないわたし達が、主イエスをキリスト(救い主)として信じること以外に救いはない、と教えられてきました。その信仰を神さまと教会の人の前で明らかにし、共同体における新しい生活を誓うのが洗礼式です。洗礼式には、水に体を浸し、そこで罪の中にあった古い自分が流れ去り、新しく生まれ変わる、という象徴的な意味があります。現在では全身を水に浸けるのではなく、頭に数滴水を垂らすだけ(滴礼といいます)の場合もあります。洗礼を受けると、カトリック教会では苗字と名前の間に「パウロ」や「ヨハネ」などのホーリーネームがつきますが、プロテスタント教会では、ホーリーネームはありません。.
A16 <聖餐(せいさん)式にはどんな意味があるのですか?>
聖餐は元来「食事」を意味していました。有名なレオナルド・ダ・ビンチの「最後の晩餐」は、主イエス・キリストと弟子達との食事を描いたものですが、そのときに主イエスはユダの裏切りを予告したり、一番弟子のペトロの離反を予告したりしています。なかでも、そこで主イエスがご自分の十字架の処刑を予告し、パンとぶどう酒をご自分の体と血にたとえて皆に分け与えられたことは、キリスト教にとって大変大きな意味を持つものです。教会では古くから、主イエスがわたし達の罪の赦しのために肉を裂かれ血を流された代償によって、わたし達の罪が赦されたことを記念するため、このパンとぶどう酒を用いて聖餐式を執り行ってきました。.
A17 <聖書って何ですか?>
聖書には「旧約聖書」と「新約聖書」があります。通常これをまとめたものを聖書と呼んでいます。旧約聖書は、世の初めからイエス・キリストが生まれるまでに起こった、神さまと人々との壮大な物語を収録した書物で、ユダヤ教の聖典です。「アダムとイブ」が食するのを禁じられていた善悪を知る木の実を食べる話、「ノアの箱舟」にありとあらゆる動物が乗り込み滅亡からまぬがれた話、天にも届く「バベルの塔」を作ろうとした人間を戒められた話など、よく知られた物語も収められています。旧約聖書は大観すると、天地を創造された神さまが、人々に繁栄を約束する「契約」を与え、その「契約」によって守られた人々が神さまを信仰しながら生きていく、という物語です。
新約聖書は約2000年前、人間を救うためにこの世に来られたイエス・キリストのご生涯と、その弟子たちについて書かれています。新約聖書に書いてあることの中心は「あなたはイエス・キリストによって救われていますよ」という約束です。この約束を「古くからある約束(旧約)」に対して、「新しい約束(新約)」と呼んでいます。
A18 <旧約聖書の神様は、何だか厳しくて、恐い気がするのですが・・・・>
たしかに旧約聖書には、神さまの怒りにふれ、人々が町もろとも滅ぼされてしまうといったような凄惨な物語があります(創世記19章)。そのような恐ろしさを身にまとわれた神さまのお姿は、愛の宗教ともいわれるキリスト教の世界からほど遠いような気がします。しかしこれは人間が神さまとの約束を破ったことに裁きの原因があり、あくまでも神さまとの正しい関係を築けなかった人間の側に責任があります。残念ながら、キリスト教では、人間は自分の力でこの責任を回避できないと考えています。古い約束ではどうしても埋まらなかった神さまと人間の溝。新約聖書ではこれを埋める新しい約束を与えるためイエス・キリストが来られた、と語っています。神さまの全体像はとても人間の想像力の範疇に押し込められるものではなく、私たちはその一面しか知ることができないのです。「だから、神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマの信徒への手紙11章22節)とあるように、私たちは神さまの厳しさだけではなく、優しさをも同時に見出していこうとしているのです。
A19 <聖書にあるように、本当に病気が治ったり、死んだ人が生き返ったりしたのですか?>
聖書には、とても信じられないような不思議な出来事、奇蹟がたくさん書いてあります。たとえばルカによる福音書には、12年もの間病気に苦しんでいた女性が、主イエスの服にほんの少し触れただけですぐに治ってしまう物語が載っています(ルカによる福音書8章40〜56節)。さらに、そのような不思議な出来事が人々の注目を集め、結果、信仰に導かれたともあります(ヨハネによる福音書12章11節)。ならば、主イエスの奇蹟は人間をキリスト教に入信させるためのアトラクションに過ぎないのでしょうか。そうではありません。主イエスは病人の癒しや死者を復活させる奇蹟を通して、人の痛みに触れ、神の愛のみが人を救うことを示されました。その窮極の形が、主イエスが身をもって示された十字架刑による犠牲の死です。
すぐに信じられないことは、聖書の話以外にもたくさんあります。それらは信じられる、信じられないという事柄だけでは片付けられません。もしかしたら、これを読まれている皆さんの人生にも、人にはとても信じてもらえないような不思議なことがあるかもしれません。人生の豊かさは、ありえないことを排除していくことではなくて、なぜそれが起こったのかを探求していくことにあるのではないでしょうか。
A20 <聖書を読めば、よい人間になれますか?>
聖書は高い倫理性や道徳性を持っています。例えば旧約聖書には「あなたの父と母を敬え」(出エジプト記20章12節)とあります。しかし、聖書が書かれた目的は、人間が社会性や道徳性を習得するためではなく、常に私たちが神さまへ向かって歩む信仰を確認するためです。なぜ神さまに向かって歩むのか。それは救われるはずのない自分を救ってくださったからです。ですから、聖書を読んだところで社会や周囲が期待する「よい人間」になれるわけではありません。けれども、聖書に記された神さまの愛に、心の深いところで気がついたとき、私たちは神さまの前で本当によい人間とされるのです。
A21 <○○による福音書って何が書いてあるのですか?>
新約聖書に収録されている福音書は4つあり、それぞれマタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ(による福音書)といいます。それぞれ違った視点からイエス・キリストのご生涯、十字架の死、そして復活の出来事を記しています。基本的には「なになにがあった」という出来事の報告がほとんどですが、全体を貫いているのは、神であるイエス・キリストが小さく弱い人間を救うためにこの世に来られたということです。
A22 <「プロテスタント」とはどういう意味ですか?>
プロテスタントというのは、16世紀にルターやカルヴァンらによって起こされた宗教改革によって、カトリック教会から分離したキリスト教に対する呼称です。プロテスタント教会の人々は、個人の業績や努力によって救われるとしたカトリック教会の人間中心主義的な教会のあり方に抵抗(プロテスト)して、「聖書のみ」「信仰のみ」によって救われることを主張しました。両者は歴史的に対立していた時期もありますが、現代では互いに歩み寄ろうとする潮流にあります。日本基督教団はプロテスタント教会に属する団体です。
A23 <キリスト教会には必ず十字架がありますが何故ですか?>
新約聖書には、神であり、人であるイエス・キリストが、罪によって創造主である神から遠く離れてしまった私たちを、完全なる愛によって救ってくださったことが書かれています。その中心となるのが、私たちの身代わりとなって亡くなられたという、十字架における出来事でした。十字架というのは、聖書の世界ではもっとも残酷な死刑方法の一つで、刑に処される者は多くの苦痛と屈辱を味わわなくてはなりません。主イエスもまた、すべての苦痛と孤独を私たちのために味わい尽くされ、死んでいかれました。私たちはこのかけがえのない愛に気付くとき、心から自らの悪しき部分について、振り返らなくてはなりません。また、主イエスは息をひきとられてから三日目の朝に死から甦られ、私たちに永遠の命に生きる希望を与えてくださいました。十字架は聖書に書かれている神の愛と主イエスの恵みがシンボル化されたものです。いつも十字架を胸に生きることが信仰者としての務めです。
A24 <クリスチャンはお酒が飲めないのですか?>
「酒に酔いしれてはなりません」(エフェソの信徒への手紙5章18節)とあるように、お酒を飲むことをあまりよくないと考える教会は多いようです。事実、禁酒禁煙を教義化しているセブンスデー・アドベンティストのような宗派もあります。逆に、その教会、その牧師の考え方によって、祝い事や懇親会にお酒が出てくることもあります。多くの場合、教会は個々人の趣味や嗜好まで禁止していません。主イエスは祝宴の席にて水をぶどう酒に変えたりなさいましたし(ヨハネによる福音書2章1〜11節)、食事の席などを交流の場としてよく使われたので、主イエスが全く酒を飲まれなかったとは考えにくく、おそらく人並み程度にはたしなまれたのではないでしょうか。そうしたこともあり、クリスチャンがお酒を飲むか否かは、それぞれの信仰的な生活態度によるところが大きいようです。つまりその人が飲みたいと思えば飲めばいいし、飲まないのがクリスチャンらしいと思えばそうすればよいのです。大切なことは「わがままでなく、すぐに怒らず、酒におぼれず・・・・」(テトスへの手紙1章7節)という自制のこころでしょうか。
クリスチャン=禁酒という考えは、明治初期に来日した米国人宣教師によってわが国にもたらされました。英国国教会と相容れないとして米国に渡ったピューリタンと呼ばれる人々が、彼らの倫理の社会的具現化の一つとして禁酒運動を始めたのです。19世紀初頭に「過度の飲酒を罪悪とする節酒運動」が始まったのですが、だんだんエスカレートし19世紀後半には「禁酒法制定を求める運動」に発展しました。来日した宣教師は丁度その流れのなかにいたのです。
A25 <○○派ってよく聞くのですが、どう違うのですか?>
キリスト教には長老派、ペンテコステ派、バプテスト派、ルーテル教会などの名前がついたグループ(教派)があります。それぞれの教派ごとに聖書の理解や礼拝の仕方が違います。日本基督教団に所属する教会は、ほぼ同じような礼拝形態を持っています。
A26 <経済的な運営はどのようになっているのですか?>
それぞれの宗派によって違うのですが、例えば日本基督教団に所属する教会は基本的に独立採算で運営されており、教会の諸経費、牧師の謝儀、土地建物費などは、その教会の信徒たちがささげた献金によってまかなわれています。ただし教団(教区)は、経済的に困窮している教会や牧師に対して、互いに支援しあうシステムを持っています。
A27 <教会にはどんな人が行ってるのですか?>
教会に通う人、というと昔から知識人や経済的に裕福な人といったイメージがあります。明治以降、そのような人から広まっていったという歴史が関係しているようです。また「教会はとてもまじめで道徳的に優れた人だけが行くところだろう」と思われることもあります。そのあたりから、どうも「教会は敷居が高い」と感じる方も多いようです。確かにそのような人もたくさん来られますが、実際には、ほとんどがごく普通の人です。市民コンサートやカウンセリングルームを主催するなど、地域の方々との交流に積極的な教会も多く、いろいろな人がいるからおもしろい。それが教会のよさの一つです。
A28 <キリスト教のおおざっぱな歴史を教えてください。>
イエス・キリストは地上での宣教活動を終え、紀元30年頃十字架の刑死を遂げられました。そして三日目に復活され、天に昇られました。残された弟子たちはイスラエルを中心に、地中海沿岸地域に次々と教会を建て、主イエスの教えを伝えていきました。しかし当時の社会や宗教の秩序を乱すと考えられたキリスト教は、ユダヤ教、ローマ帝国から激しく弾圧され、ステファノ、ヤコブ、ペトロ、パウロなど初期の主要な宣教者たちはみな殉教しました。特に、ローマ帝国との関係においては、皇帝のキリスト教理解が代によって著しく異なっており、激しい迫害と寛容的態度の間で揺さぶられました。キリスト教によって長く苦しい時代が続きましたが、313年にいわゆる「ミラノ勅令」が発令され、ローマ政府に公認されると、教会はヨーロッパ全土に広まりました。その後は西欧帝国主義、植民地政策などにより世界中に広まっていきました。
16世紀までに、教会はヨーロッパ各地で驚異的な発展を遂げ、世俗の権力と結びつくようになりました。礼拝形式も古代から非常に厳格に保持され続けた結果、一般大衆からは遠い存在となっていきました。ドイツ人マルティン・ルター(1483−1546)はそのような教会の状況に対して疑問を持ち、1517年にいわゆる「95箇条の質問状」を大学の門に貼り付けたのが、宗教改革の始まりです。それまでの教会の中心的な教えの一つに、人間はよき行動によって救われる、あるいは贖宥状(いわゆる免罪符)を買うことによって罪が取り除かれる、というものがありましたが、これに対してルターは「教会の伝統よりも聖書に権威がある」「行動ではなく信仰によって救われる」ということを主張しました。彼の運動はしだいに宗教改革運動として定着し、ドイツ全土の諸教会がこの問題を真剣に取り上げるようになりました。その後、ルターに影響を受けたスイスのツヴィングリ(1484−1531)、フランスのカルヴァン(1509−64)も独自に宗教改革運動を展開し、それぞれにプロテスタント(抵抗する者)教会を設立していきました。中世から現代にいたるまでに、プロテスタント教会はさらに分離を続け、現在では数え切れないほどの宗派が存在しています。
A29 <キリスト教の生死観とは?>
わたしたちは、なぜ生まれてきて、何のために生きているのでしょうか。その答えを見出せずにいる人は多いのです。実は、聖書にそのヒントが書いてあります。それは「神が私たちを愛するがゆえに、イエス・キリストをこの世に遣わしてくださった」ということです(ヨハネによる福音書3章16節より)。いいかたを換えるならば、「わたしたちは愛されるために生まれてきた」というのです。わたしたちは神に愛された者であることを自覚してはじめて、神と人を愛す、という生き方を選択できるのです。
ではなぜ、人は死ぬのでしょうか。キリスト教において「死ぬこと」は、「生きること」と同じくらい大切な事柄です。死ぬときにこそ、その人の生涯を通して示された神の愛を確認できるからです。確かに死はだれにでも訪れるものであり、決して避けることができません。できれば遠ざけたい。それはクリスチャンとて同じことです。しかしキリスト教の信仰とは、死にうち勝たれた主イエスの復活(つまり今も生きてわたしたちを守ってくださっているということ)を信じることです。主イエスは「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネによる福音書11章25節)と言われました。生涯を主イエスとともに歩んだわたしたちは、たとえ肉体が死んでも、その霊は永遠に生きるのです。死は生の締めくくり、そして永遠の命への門です。
A30 <教会で結婚式を挙げたいのですが、どうすればいいのですか?>
ほとんどのキリスト教会で結婚式をあげることができますが、教会によっては教会員の紹介がなければいけないなどの条件がある場合もあります。現在の教会では、クリスチャンであることが条件になることはまずありません。ただし、神の御前で愛を誓い合うのですから、いいかげんな気持ちでは臨めません。そこで、結婚式前に何回かに分けてキリスト教の勉強会を開催することがあります。詳しくは、実際に教会の牧師にご質問ください。
A31 <教会でお葬式をすることはできるのですか?>
もちろん、一般の方(クリスチャンでない方)も教会で葬儀を挙げることがでます。ただしこの場合も教会ごとに事情が違いますので、実際に問い合わせてみることが必要です。あらかじめ「準備」ができる状態であれば、時間をかけて牧師と打ち合わせ、穏やかな気持ちでそのときを迎えたいものです。病床で洗礼を受けることも可能です。特に注意すべきことは、葬儀は故人の人柄や業績に対する賞賛が目的ではなく、その人の生涯を通じて示された神の愛を賛美するための儀式、ということです。
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